『駿臺雑話』(すんだいざつわ)

    


タイトル:『駿臺雑話』(すんだいざつわ)

著述者:室鳩巣

出版書写事項:明治期 無刊記

形態:五巻全五冊 和装大本(B5版)

序:寛延庚午十一月冬至日 東都 直學士藤原明遠謹識

浪華書林 岡島寶玉堂

諸國弘通書肆:
 東京 北畠茂兵衛・稲田佐兵衛・山中市兵衛・博聞社・長野亀七
 西京 藤井孫兵衛 加州金澤 中村喜平 紀州和歌山 平井文助
 防州山口 宮川臣吉 長門豊浦 村谷傳三郎 豫州松山 玉井新治郎
 筑前福岡 山嵜登 但馬豊岡 由利安助 江州大津 澤宗次郎
 播州姫路 本莊輔二 大阪本町四丁目 岡島真七

目録番号:win-0080009



駿臺雑話』の解説

 『駿台雑話』(すんだいざつわ)は、江戸時代中期に活躍した朱子学者の室鳩巣(むろきゅうそう・万治元年・1658~享保十九年・1734)が晩年の七十四歳の時(享保十七年・1732年)に著述した随筆集で、書名の「駿台」とは、邸宅があった「神田駿河台」のことで、駿河台の邸宅を来訪した門弟たちに語る体裁で著述され、自らの学問的経歴を述べた記録的随筆集である。

 教訓風に著述され名文と評された『駿台雑話』は、木下順庵を師とした鳩巣の思想が読み取れる「老學の自叙」から始まり、当時活躍していた人物の逸話も知ることができる。構成としては、五徳とも五常とも呼ばれる五つの徳目である仁集・義集・禮集・智集・信集の五項目に分類されているが、項目ごとの内容とは関連が無いようである。また、父子の親・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信の五倫の道とも対応してはいない。

 室鳩巣は、室玄樸の子として武蔵国谷中村(現在は東京都台東区谷中)で生まれた。十五歳で加賀藩に仕え藩主の前田綱紀の命で京師の木下順庵の門下となった。同門の新井白石の推挙で幕府の儒官となり、徳川将軍の家宣・家継・吉宗の三代に仕え、幕府より駿河台に屋敷を与えられ献策と書物の選進に励み、吉宗時代には「享保の改革」を補佐した。湯島聖堂において朱子学の講義を行い、元禄赤穂事件においては浪士を擁護したことでも知られた。『駿台雑話』以外にも『五常名義』『五倫名義』『赤穂義人録』などの著作がある。また、鳩巣が木門の優れた門下であったことは『錦里文集』を読めば明らかである。

 鳩巣の著作の内で最も世に知られた物は、「赤穂義人録」(宝永六年・1709年定稿)であるが、赤穂浪士の行動を、同時代に活躍した荻生徂徠や太宰春台が法治主義の立場から治安を乱す犯罪行為と批判したのに対し、鳩巣は人倫に適う忠義の行為として賞賛したのである。同様に義挙と評価した儒学者には、浅見絅斎や三宅観瀾など多く存在したが、これら多数の意見を代表するものでもあった。

 木下順庵(きのしたじゅんあん・元和七年・1621~元禄十一年・1699)は、四十歳のときに第二代加賀藩主の前田利常(まえだとしつね・文禄二年・1594~万治元年・1658)に仕え、還暦を越えて江戸幕府の儒官となり第五代将軍の徳川綱吉(つなよし・正保三年・1646~宝永六年・1709)の侍講を務め、朱子学を主流としたが古学にも造詣が深かったことが知られている。順庵は林羅山の孫である林鳳岡(はやしほうこう・寛永二十一年・1645~享保十七年・1732)や林門の儒家たちとも交流した。『海舟座談』で紹介したように勝海舟(かつかいしゅう・文政六年・1823~明治三十二年・1899)も教育者としての順庵を評価しているが、『錦里文集』で紹介したように「木門十哲」と呼ばれた優れた人材を輩出した。

 『駿台雑話』の序(寛延庚午十一月冬至日)を担当した藤原明遠(ふじわらのみんえん・元禄十年・1697~宝暦十一年・1761)は、江戸時代中期に活躍した江戸出身の儒者で、幕府医官であった父の中村玄悦から医学を学び、室鳩巣の門下となり儒学を学んだ。父の後を継ぎ玄春という医官であったが儒者を志し、西の丸奥医者から奥儒者に転じて深蔵と改め、九代将軍の徳川家重(とくがわいえしげ・正徳元年・1712~宝暦十一年・1761)の近侍になった。室鳩巣に師事したが、考証を重んじて他学派の説も学び(朱子学墨守に固執しない木門の特徴でもある)、稲葉迂斎(いなばうさい・貞享元年・1684~宝暦十年・1760)の門も敲いた。朝鮮通信使と筆談で朱子学について議論したことは有名であった。なお、遺命として蔵書を足利学校に寄贈したが、著作には「学山録」「学規口解」「通書解翼義」「読詩要領」「孟子考証」「大学衍義考証」など多数ある。


新刊駿臺雜話序

駿臺雜話五卷。迺鳩巣室先生之所著也。夫以講論之餘。亹々及此言。大抵發乎所問者。而研竆理義。藻鑑人物。或往事之可感。或當世之可警。莫非下守正學而扶名教之意上也。何其諄諄諭人之若是哉。一時遊門之士。皆虗往而實歸。從可知已。明遠雖不敏。執經下座。竊與有聞焉。嗟乎。在則人。亡則書。先生已遠。九原不作。後之讀此書者。亦可以想見其造詣之深爾。雖然鐘之應撞而始鳴。其聲之大小洪繊。惟隨乎其所叩。則善教之待其問。理亦不異於是。而先生之蘊。固有下非斯書所能盡者矣。書肆崇文堂。請上諸木。以傳不朽。因與其孫室直温謀焉。遂告之官。以一本授之。適剞劂功成矣。於是乎序。
寛延庚午十一月冬至日 直學士 藤原明遠謹識

「むさしの國大城の東駿臺のもとに、草の庵むすびて住みける獨の翁ありけり。そのかみ北國より爰に來て家居せしが、もとより深山木の花にあらはるべき材もなければ、其梢としる人もなくして、たゞ學の窓に文をひろげ、見ぬ世の人を友とし、老の至るをもわすれつつ、きのふといひけふと暮して、はやふたとせあまりにおよべり。ちかきころより衰病日に加り、それに萎痺の疾ありて、起居も心に叶はねば、日夜、衾枕をのみ親しみ、書籍にさへうとくなりにたり。何をか世にあるおもひ出にせまし。爰に此翁に就いてもの學ぶ輩ありて、書を講じ文を論じ、おのおの虚にして往き實にして歸らぬはなし。其外、花の晨月の夕には、かならず問來て、なにくれと世にあらゆる事ども語りつゞけつゝ、日をくらし僕を更ふれどもやむ事なし。むかしより良辰は失ひやすく、嘉會は得がたければ、いつも賓主ともに唐錦たゝまくをしくなん見えし。翁も客に對して清談することをこのみて、身の煩はしさも心地よくおぼゆる儘に、いにしへ今の世にいひふる難波の事のよしあしとなく、本末懸けてその理を盡しけるが、われながらをかしとおもふひとふしもあれば、其席はてゝ、わが子弟に命じて、やまと文字に寫し置きけるに、日數を經ておぼえず卷をなせり。もとより有識のきはの人の目をとゞむべきものにもあらねば、さしてをしむべき事にはあらねども、古人の鷄肋といへるも類しぬべし。さすが反故となしてかいやり捨てんも本意なければ、さて兒輩にあたへてよましめんとて、しばらくのこしおきけらし。享保壬子のとし九月中旬、鳩巣の翁駿臺の草の庵にして筆をとる。」(自序より)

 大学受験でも頻出の「駿臺雜話」であるので、「駿臺雜話目録」も記載のまま記録しておく。

仁集
 老学の自叙・釋源空が誓・異説まちまち・心の目しひ・愚公か山・老僧か接木・葉公か龍
 扁鵠薬匙をすつ・矯軽警惰・忠孝のこころ・鬼神の徳・聖人の誠・妖は人より興る
 飛騨山の天狗・年内の立春・袖ひちての歌・諸道わざより入る・釋寂室か秘訣

義集
 武運の稽古・善悪の報・天人相勝・夢の浮世・鈴木某か歌・朝がほの花一時・不忮不求
 春秋のあらそひ・秘事は睫・佛になるやう・仁は心のいのち・義は心のきれ・浩然の気
 敬の工夫・民は王者の天・富士のすそ野・天下の寶・風俗は政の田地

禮集
 天下は天下の天下・直諫は一番鎗より難し・杉田壹岐・伴大膳・阿閉掃部・士の義節
 歳寒知松柏・手折し手にふく春風・烈女種なし・澤橋か母・天野三郎兵衛・結解の何かし
 二人の乞兒

智集
 燈臺もと暗し・運慶か口傳・法は江河のことし・鴟鵂のふみ・つれつれ艸・青砥か續松
 渡部番・大佛の錢・泰時の無欲・楠正成・足利家の亂・武田信繁・兵法の大事
 孫臏韓信か兵法・兵は詭道・不忘向君・大敵外になし

信集
 月は世々の形見・離騒の秘事・遍照か黒かみ・世をすてゝ身をすてす・詩文の評品
 倭歌に感興の益あり・六義の沙汰・作文は讀書にあり・多錢善買・文章の盛衰・曇陽大師
 寸鐵人をころす・言は身の丈・一日の澤・尤物人を移す・年にはつかし・壬子試筆の詞附


 鳩巣が講義を行った「湯島聖堂」(ゆしませいどう)は、元禄時代に「天和の治」と呼ばれた政治を推進した五代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし・正保三年・1646~宝永六年・1709)によって建てられた孔子廟である。林羅山(はやしらざん・天正十一年・1583年~明暦三年・1657年)が上野忍が岡(現在では上野恩賜公園)の私邸内に建てた「先聖殿」を移築して孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額を調製し、同時に付属の建物全てを「聖堂」と呼ぶように改めた。一時衰微するが「寛政異学の禁」により聖堂の役割も見直され、林家の私塾が幕府官立の「昌平坂学問所」となり「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれた。現在も湯島聖堂内には、世界最大の孔子尊像や四配像(顔子・曾子・子思・孟子)などが鎮座している。

 JR中央線の御茶ノ水駅の聖橋口から聖橋を渡り右手に見えてくる森に存在している「湯島聖堂」は、現在では、「日本の学校教育発祥の地」の掲示があり国の史跡に指定されている。合格祈願のために参拝に来る受験生が後を絶たないが、樹冠人も学生時代に毎日の通学途中に存在していたことも手伝ってか、幾たびか訪問した良き思い出が蘇る場所でもある。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)十月作成