『錦里文集』(きんりもんじゅう)

    


タイトル:『錦里文集』(きんりもんじゅう)

著者:木下順庵

校訳:木下一雄

出版書写事項:昭和五十七年(1982年)発行

形態:十九巻全一冊(B6版)原本翻刻・完全校訳

附別冊:木下順庵評伝 木下一雄著

発行者:佐藤今朝夫

発行所:株式会社国書刊行会

目録番号:win-0080007



錦里文集』の解説

 『錦里文集』(きんりもんじゅう)は、江戸時代初期に活躍した錦里先生と呼ばれた木下順庵(きのしたじゅんあん・元和七年・1621~元禄十一年・1699)の唯一の遺稿である。また、順庵には全く著書が無く、江戸時代初期に活躍した『翁問答』で紹介した中江藤樹や『中庸発揮』で紹介した伊藤仁斎や『白鹿洞学規集註』で紹介した山崎闇斎や『聖教要録』で紹介した山鹿素行や『集義和書』で紹介した熊沢蕃山や『養生訓』で紹介した貝原益軒などの大儒者たちとは趣を異にしている。

 『錦里文集』の成立までの経緯は複雑で、順庵の死後十七年にあたる正徳五年(1715年)に、順庵の次男である寅亮(木下菊潭)が編纂したものであるが、稿本を家に蔵したままで終わった。その後、順庵の外玄孫にあたる靜(正直)は、この遺稿集の上梓のために奔走し、ついに柴野邦彦の助力で天明七年(1787年)に版が出来上がったが、天明大火で版木が消失してしまった。しかし、版木の再生に力をつくし寛政元年(1789年)に刻を新たに刊行したのである。この遺稿は順庵の死後九十年以上もたって刊行された木下家の執念の賜物でもある。

 今回紹介する書籍は、寛政元年に再刻された原本を翻刻して、順庵の子孫である木下一雄(きのした かずお・明治二十三年・1890~平成元年・1989)が全訳を付して刊行した書籍で、これまで一般には識られることのなかった順庵の遺稿集であり、全文が初めて公にされた書籍でもある。

 『錦里文集』の構成は、菅原胤長と柴邦彦と木寅亮(木下菊潭)の序の後に、「錦里先生小傳」「凡例」を配し、巻一から巻五までの「西京稿」、巻七から巻十までの「東武稿」、巻十一に「北海稿」、巻十二・巻十三に「對韓稿」、巻十四に「于役稿」、巻十五に「和歌題」、巻十六から巻十八までの「恭靖先生遺稿」、巻十九に「附録」、そして外玄孫の靜(正直)と柴邦彦の後記で構成されている。

 木下一雄(きのしたかずお・1890年~1989年)は、木下順庵の子孫で、東京第一師範学校校長や東京学芸大学学長や東京都教育委員会委員長を歴任した教育者である。彼は日教組と対立して「教育は日教組のものではない。」と主張したことは有名であった。

 木下順庵の祖先は伊勢平氏で伊賀では拓殖氏を称し、後柏原天皇時代(室町時代)には近江粟津に居住して北村氏を名った。そして、北村宗正の三代弥三右衛門の時に京都山科に転居してから木下氏と改め、順庵は二代目木下弥吉郎秀里の次男で浪人の子として京都錦小路新町に誕生した。

 地位も身分もない庶民の順庵ではあったが、生まれながらにして聡明で、十三歳のときに『太平頌』を作ったことで公家の烏丸光廣が明正天皇に上覧し宮中でも有名となった。一時江戸に出たが帰京後、藤原惺窩(ふじわらせいか・永禄四年・1561年~元和五年・1619年)の弟子の松永尺五(まつながしゃくご・文禄元年・1592~明暦三年・1657)に学び、約二十年間も古典の学究に専念した。

 江戸時代初期の知識層に影響を与えた下冷泉家の藤原惺窩(ふじわらのせいか・永禄四年・1561年~元和五年・1619年)は、京都五山で学んだが学僧に不信を覚え儒教学に走った。惺窩は朱子学派であったが陸王学も受容し多くの門人を輩出し、京学派を確立して江戸時代の幕開けを飾った大人物である。

 木下順庵の師匠である松永尺五(まつながしゃくご・文禄元年・1592~明暦三年・1657)は、京師出身で林羅山・那波活所・堀杏庵とともに窩門四天王の一人と呼ばれた逸材である。尺五の曽祖父は戦国の三梟雄とも呼ばれた戦国大名で有名な松永弾正久秀である。尺五は幕府や藩に仕官せず、京都所司代の板倉重宗に厚遇され、京師に春秋館・講習堂・尺五堂などの私塾を経営し木下順庵や貝原益軒を輩出した。

 順庵が京師にあるときは、しばしば禅林寺(永観堂)や黒谷(金戒光明寺)や天竜寺や大原を訪問し、特に、『錦里文集』には京師五山等の禅師と親交を深めた詩文の往復が掲載されている。また、京師・加賀・江戸の間をしばしば往来している紀行詩が『錦里文集』には掲載されている。そして、徳川光圀との往来も二十年間にも及び『錦里文集』では世に知られていなかった往復書簡も掲載されている。

 順庵が江戸で生活するようになってからの『錦里文集』での記録においては、最も多く残されている詩文が江戸に居住していた門弟の新井白石と榊原篁洲に関するものが多く、師匠を尊び訓言を求める白石に対して一文を草した順庵との師弟愛を窺うことが出来る。また、柳川震沢や室鳩巣が優れた門下であったことは『錦里文集』を読めば明らかである。

 順庵が四十歳のときには第二代加賀藩主の前田利常(まえだとしつね・文禄二年・1594~万治元年・1658)に仕え、還暦を越えて江戸幕府の儒官となり第五代将軍の徳川綱吉(つなよし・正保三年・1646~宝永六年・1709)の侍講を務め、朱子学を主流としたが古学にも造詣が深かったことが知られている。

 順庵は林羅山の孫である林鳳岡(はやしほうこう・寛永二十一年・1645~享保十七年・1732)や林門の儒家たちとも交流した。『海舟座談』で紹介したように勝海舟(かつかいしゅう・文政六年・1823~明治三十二年・1899)も教育者としての順庵を評価しているが、「木門十哲」と呼ばれた優れた人材を輩出した。徳川綱豊(後の徳川家宣)の使者が甲府徳川家に仕える儒学者を探しに来た折には、順庵は門人の新井白石を推薦し木門の隆盛が始まった。

 木門十哲(もくもんのじってつ)とは、柳川震沢・ 柳川滄洲・新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・祇園南海・榊原篁洲・南部南山・松浦霞沼・服部寛斎の十人である。また、新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・祇園南海・榊原篁洲は「木門の五先生」とも呼ばれた。なお、順庵の指導を受けていた三宅観瀾は門人否定しているので除外した。以下の説明の通り、当時の木門の興隆は官学林家にとって大きな脅威となっていたことは明らかである。

柳川震沢(やながわしんたく・慶安三年・1650~元禄三年・1690)
⇒震沢は近江国の人で京師において木下順庵の門下となる。師匠の代講を務めるほど優秀な弟子で、順庵の子である木下菊潭や柳川滄洲らに教えた。著作に「震沢長語」「平菴漫録」などがある。

柳川滄洲(やながわそうしゅう・寛文六年・1666~享保十六年・1731)
⇒滄洲は、摂津国高槻の人で京師において木下順庵に学び、師匠に従って江戸に行き、室鳩巣や新井白石等と親交を深めた。その後、京師に戻り柳川震沢に師事し柳川姓を継いだ。後には、本姓の向井滄洲に復した。

新井白石(あらいはくせき・明暦三年・1657~享保十年・1725)
⇒白石は、数奇な運命を辿った儒学者で政治家でもある。父の新井正済が上総の久留里藩に仕官していた時に白石が生まれたが、後に、父子は久留里藩を追われ自由の身となった。その後、白石は大老の堀田正俊に仕えたが、正俊が失脚すると白石は堀田家を退いて浪人し、独学で儒学を学び続けた後に木下順庵と巡り合い入門することになる。順庵は白石を甲府藩へ推挙し、藩主の徳川綱豊が名を家宣と改め将軍に就任すると、側近として「正徳の治」と呼ばれる政治改革を推進した。家宣の子で七代将軍の徳川家継の下でも政権を担当することになったが、幼君を補佐する政局運営は困難を極め、幕閣や譜代大名の抵抗も激しくなり、徳川吉宗が八代将軍に就任すると白石は失脚し、公的な政治活動から退くことになった。最終的に千駄ヶ谷の地に隠棲し、晩年は不遇の中でも著作活動を続けた。

室鳩巣(むろきゅうそう・万治元年・1658~享保十九年・1734)
⇒鳩巣は、室玄樸の子として武蔵国谷中村(現在は東京都台東区谷中)で生まれた。十五歳で加賀藩に仕え藩主の前田綱紀の命で京師の木下順庵の門下となった。新井白石の推挙で幕府の儒官となり、徳川将軍の家宣・家継・吉宗の三代に仕え、幕府より駿河台に屋敷を与えられ献策と書物の選進に励み、吉宗時代には「享保の改革」を補佐した。湯島聖堂において朱子学の講義を行い、元禄赤穂事件においては浪士を擁護したことでも知られた。『駿台雑話』『五常名義』『五倫名義』『赤穂義人録』などの著作がある。

雨森芳洲(あめのもりほうしゅう・寛文八年・1668~宝暦五年・1755)
⇒芳洲は、近江国伊香郡雨森村(現在は滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の子として生まれた。京都で医学を学び、長崎で中国語を学び、江戸へ出て木下順庵門下に入った。芳洲は中国語や朝鮮語に通じていたこともあり木下順庵の推薦で対馬府中藩に仕えて、李氏朝鮮との通好実務にも携わった。しかし、朝鮮人参密輸など藩の朝鮮政策に対する不満から、朝鮮方佐役を辞任し、家督を長男の顕之允に譲り、自宅に私塾を設けて著作と教育の日々を過ごした。

祇園南海(ぎおんなんかい・延宝四年・1676~宝暦元年・1751)
⇒南海は、漢詩人としても有名であった儒学者であった。また、服部南郭・柳沢淇園・彭城百川と共に日本文人画の祖とも称され、御三家紀州藩に仕えていたので、桑山玉州・野呂介石と共に紀州三大南画家とも呼ばれた。紀州藩医であった祇園順庵の長男として江戸に生まれ、木下順庵に入門した折には程朱学(宋学の主要部分である程顥・程頤と朱熹の学説の総称)を主体に学び、同門の松浦霞沼とは「木門の二妙」と呼ばれ才能を認められていた。南海の十代の逸話として有名な出来事として、初めて順庵と出会った折に七言律詩を詠んで師匠を驚かし、一晩で五言律詩を百編も作り同門からは絶賛されたことは有名であった。若き日の南海は、侠客徒党の首領格となり住民へ乱暴狼藉を働いたり、恐喝などの不行跡な生活を送っていたが、家老の三浦為隆の庇護も受けていたようで、藩主の徳川吉宗から赦しを得て正徳度の朝鮮通信使の接待役の任を担当し、その功績により旧禄に戻され、紀州藩の藩校である湊講館が創設された折には校長となった。なお、文人画家としての画業は与謝蕪村や伊藤若冲などに大きな影響を及ぼした。

榊原篁洲(さかきばらこうしゅう・明暦二年・1656~宝永三年・1706)
⇒篁洲は、和泉国の生まれで本姓は下山氏であったが、幼くして両親を失い外祖父に育てられ榊原姓を名乗った。若い時期に上洛し仕官を試みるが果たせず、木下順庵に入門して順庵の家に三年間寓居した後に故郷の和泉に帰った。その後、外祖父に従って江戸に出て、子弟の教育に携わるが、木下順庵が江戸幕府に招聘され江戸に下向して来たので再入門した。篁洲は新井白石・室鳩巣・雨森芳洲・祇園南海とともに「木門の五先生」と呼ばれ、順庵も篁洲との関係を「汝と我と、陰と陽あるが如し」と、子弟の枠を超えて相互に補い合う関係だと述べていた。そして、師の順庵との関係は深く、順庵の推挙を受けて御三家紀州藩の儒官となった。篁洲は順庵の学統を尊重して学派の区別を好まず、のちの折衷学派の開祖とも目されている。また、中国歴代の法律や制度にも詳しく『明律訳解』を著して、荻生徂徠などの律学政書の魁となった。さらに、帰化僧の東皐心越(とうこうしんえつ・1639~1696)の流れを汲む篆刻を学び、日本における文人篆刻の魁となった。

南部南山(なんぶなんざん・万治元年・1658~正徳二年・1712)
⇒南山は、詩文に優れた儒学者であった。南山の祖先は豊後大友氏の庶族で毛利氏に滅ぼされ肥前長崎に逃れた。医術に優れていた父の昌碩は早死にし、幼少から経史を読んでいた南山は長崎に遊学中の南部草寿の養子となり初学を学び、越中富山藩に仕えた草寿の後を継ぎ藩儒として人生を全うした。木門十哲の中では史論に秀でていた南山は諸家の史を評論した「環翠園史論」などを著した。

松浦霞沼(まつうらかしょう・延宝四年・1676~享保十三年・1728)
⇒霞沼は、詩文に才能を発揮した儒学者であった。父の守興は姫路藩松平家に仕えていたが浪人の身となり、霞沼は播磨国に生まれた。なお、母は国学者の契沖の妹である。越中富山藩に仕え藩学の基礎をつくった南部南山の養父である南部草寿から学才を激賞され、霞沼は十三歳にして対馬府中藩に召し抱えられた。順庵門下に学んで詩文に才能を発揮し、同じ木門から府中藩に招聘された雨森芳洲とも親しかったと伝わっている。

服部寛斎(はっとりかんさい・寛文七年・1667~享保六年・1721)
⇒寛斎は、甲斐府中藩に仕え、江戸桜田邸にて藩主の徳川綱豊(第六代将軍の家宣)の侍講となり、後には家宣に従い幕府にも仕え、同門の新井白石と「正徳の治」を支えた。なお、松尾芭蕉の弟子で蕉門十哲の第一の門弟である榎本其角こと宝井其角(きかく・寛文元年・1661~宝永四年・1707)の儒学における師匠は寛斎であった。

【参考】国書刊行会について

 株式会社国書刊行会(こくしょかんこうかい)は東京都に本社を置く出版社で、社名の「国書刊行会」は、江戸期の貴重本を復刻出版していた明治期の出版社と同じ名前を標榜している。元々は印刷業を営んでいたが、出版業に移行して学術資料書籍の復刻出版を目的として設立された。『明月記』『玉葉』の復刻版刊行によって産声をあげ、『世界幻想文学大系』の刊行を契機に、海外文学・幻想文学まで刊行分野を広げ、現在では、歴史・仏教・神道・国文学などの学術書からミステリ・SF、ホラーやオカルト、美麗な妖怪画の画集まで、「国書刊行会らしさ」を追求することをモットーに、コンスタントな出版活動を続けている。また、「国書日本語学校」を開校し、アジアを中心とする多くの国から留学生を受け入れ、今までに1万人を超える留学生が巣立っている。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)九月作成