『續氷川清話』(ぞくひかわせいわ)

    


タイトル:續氷川清話(ぞくひかわせいわ)

著者:勝安芳(勝海舟)述 吉本襄 撰

書:「達見明識」谷干城

出版書写事項:明治三十二年(1900年)一月十四日 五版発行

形態:一巻全一冊 和装中本(B6版)

印刷者:平島嚝

発行所:鐵華書院

印刷所:八重洲橋活版所

目録番号:win-0030002



續氷川清話』の解説

 吉本襄の編集した勝海舟(文政六年・1823~明治三十二年・1899)の「氷川清話」を、明治期の発刊の順で追うと、「氷川清話」「續氷川清話」「續々氷川清話」「校訂氷川清話」となる。「續氷川清話」も回想録であるが、「おれが海舟といふ號を附けたのは、象山の書いた『海舟書屋』といふ額がよく出来て居たから、それで思ひついたのだ。(中略)安芳といふのは、安房守の安房と同音だから改めたのヨ。實名は義邦だ。」と、いかにも江戸っ子らしい口調で始まる。勝海舟本人によると、「安芳」は「あほう」と読めると洒落ている。

 「氷川清話」でもたくさんの人物評論を述べているが、「續氷川清話」にも偉丈夫が多数登場する。陽明学に通達した勝海舟の陽明学者(「陽明行者」と呼んだ方が良いかもしれない)に対する評論は、「熊澤蕃山は、儒服を着けた英雄だ。」の如くである。

 そして、徳川吉宗公、鍋島閑叟侯、島津斉彬公、江川太郎左衛門、高野長英、山内容堂公、岩倉具視公、横井小楠、山階宮、陸奥宗光、伊藤博文・井上馨・山県有朋、伊東巳代治、王陽明、大院君、李峻鎔と続く。そして、勝海舟が最も愛した庶民の登場である。新門の辰、薬鑵の八、幇間の君太夫、八百松の松、松源の婆、多賀右金治、感服した三人の囚徒、青木彌太郎と続く。

 ここでは、徳川慶喜と勝海舟に愛された「新門の辰」こと「新門の辰五郎」についての逸話を記録しておこう。

 江戸の下谷で生まれた辰五郎は、一声かければ瞬時に三千人の子分が集まるといわれた町火消浅草十番組「を組」の頭で、幕末の上野戦争では彰義隊に加勢して官軍と戦い、徳川慶喜の助命運動も展開して江戸っ子佐幕派の代表のような存在で、辰五郎の人生も波乱万丈であった。

 元治元年(1864年)に徳川慶喜が禁裏御守衛兼摂海防御総督に就く折、京都まで同行して身辺警護の役目と御所や二条城の防火任務に就く、そして、祗園町の火事で八坂神社の拝殿に火が移るのを消し止めたり、大阪城内の縁の下の地雷火の破裂では子分を指揮して数百の酒樽の鏡を打ち破り消火したりで、徳川慶喜の辰五郎への信用を上げる。また、京都の大群衆の中で梯子乗りをやって驚かせた。(現代では、梯子乗りは江戸消防記念会が参加してテレビ放映などで有名であるが、当時では非常に珍しかったようである)

 慶應四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が大阪城から江戸に敵前逃亡した折に、大金扇の馬印を大阪城内に置き忘れる。辰五郎は慶喜が無事に出航したのを見届け大阪城内に戻り、馬印を取って掲げ、子分二十人程で颯爽と陸路東海道を江戸まで行軍した。この逸話は、後世まで講談などで「新門辰五郎の美談」として語り継がれた。また、江戸開城の折には、勝海舟から江戸中に火をつけるよう命令されていたことが、「氷川清話」の「江戸城引渡附慶喜公へ言上の記」で記録されている。

 辰五郎は徳川慶喜が水戸に移動した折も身辺警護の役目に就き、御用金二万両を水戸に運んだり、静岡に移動したときには、清水の次郎長と意気投合して二人で芝居小屋の「玉川座」を復興する。辰五郎は玉川座の権利を買い江戸歌舞伎座三座を呼び興行しようとした。玉川座は明治三年に竣工し、こけら落としには東京から千両役者が来演し、満員御礼となる。その後、辰五郎は権利を小川鉄太郎に譲り帰京し、後には玉川座は小川座と改称された。

 まさに、辰五郎の生き様を見ると、「請け負った仕事は、完遂する心意気。」を感じる。当時の「へなちょこ武士」よりも、余程頼もしい存在であったことがわかる。

 そして、洒落た辞世の句「思ひおく まぐろの刺身 ふぐと汁 ふっくりぼぼに どぶろくの味」を遺して、明治三年(1875年)八十三歳で永眠した。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十二年(2010年)十一月作成