『校訂氷川清話』(こうていひかわせいわ)

    


タイトル:校訂氷川清話(こうていひかわせいわ)

著者:勝安芳(勝海舟)述

書:「達人大観」渡邊國武

出版書写事項:明治四十二年(1909年)十月十五日 初版発行

形態:一巻全一冊

編輯人:吉本襄

発行人:河野源

印刷者:池田萬吉

印刷所:萬陽堂印刷所

発行所:河野成光館

目録番号:win-0030003



校訂氷川清話』の解説

 吉本襄の編集した勝海舟(文政六年・1823~明治三十二年・1899)の「氷川清話」を、明治期の発刊の順で追うと、「氷川清話」「續氷川清話」「續々氷川清話」「校訂氷川清話」となる。

 ある時、「勝海舟の『氷川清話』に事実関係の間違いがいくつもある。編集段階で吉本襄があれこれ勝手に改竄しており、しかもそれが巷に広まってしまった。」との記事が載った。このことは「氷川清話」の研究者には早くから了解されていたことである。実は、吉本襄が改竄した部分を徹底的に検証して、修正したものが講談社学術文庫(江藤淳・松浦玲編)の「氷川清話」である。

 「校訂氷川清話」は、勝海舟(以下、海舟と表記)が死んで十年後、河野成光館の河野源が吉本襄より版権を譲り受け吉本襄の編纂した「氷川清話」を全面改訂して発行したものである。吉本襄の序に加え「校訂氷川清話」の序として徳冨猪一郎が担当している。諸言に続いて「續氷川清話」の書き出しから始まっている。これは、「氷川清話」「續氷川清話」「續々氷川清話」を取り混ぜて編集したものである。そして、松村介石・井上圓了・人見市太郎・田口卯吉・戸田安宅の賛辞を附録している。

 私こと樹冠人にとっては、全三冊の吉本襄の著作「氷川清話」よりも、「校訂氷川清話」の方が海舟の心情を全体展望できるので利用しやすかった。また、後に見出しが付けられ読みやすくなった「勝海舟全集」(頸草書房、江藤淳・勝部真長編集)を購入するまでは、この「校訂氷川清話」が重宝した。

 「校訂氷川清話」は、五言絶句二首の後に、「おれが海舟といふ號を附けたのは、象山の書いた『海舟書屋』といふ額がよく出来て居たから、それで思ひついたのだ。(中略)安芳といふのは、安房守の安房とと同音だから改めたのヨ。實名は義邦だ。」と「續氷川清話」の書き出しから始まる。

 そして、「氷川清話」の冒頭の「戊辰の變は、おれは町飛脚の知らせによって、幕閣よりも一日早く承知したけれど、おれは當時閑居の身だったから、意見を進める機會を得なかつた。」などが編入され、自叙略歴が語られる。そして、「全体大きな人物といふものは、そんなに早く顕れるものではないヨ。通例は百年の後だ。」から始まる「人物評論」の部分に移る。

 「續氷川清話」では、「新門の辰五郎」を紹介したので、海舟日く、「江州(滋賀県)の塚本定次という男は、実に珍しい人物だ。」と、また曰く、「数万の財産を持っておりながら、自分の身に奉ずることは極めて薄く、いつも二子のはおりと同じ着物でいて、ちょっと見たところでは、ただ田舎の文盲なおやじしか思われない」と紹介されている非凡な有徳家で近江商人の「塚本定次」の逸話を記録しておこう。

 「塚本定次」(「紅屋」二代目定右衛門・現在はツカモトコーポレーション)の逸話は、四つ語られているが、その内の二つを紹介しよう。

 まず一つ目は、海舟へいろいろ話を聞きにきて、「私(塚本定次)も近ごろ思いがけず四万円(日本銀行の企業物価指数が現在と明治三十年代で比較すると約1400倍以上あるから、5600万円以上と推定される)ばかり積み立て金ができましたが、せっかくできたものですから、なんとか有益な事につかおうと存じますけれど、自分ではどうもよい判断がつきかねますから、わざわざそのご相談に参りました。
 まず私の考えるところでは、その一半を学校の資本に寄付して、その一半は番頭らに配分してやるつもりです。もともと私の利得は、決して私の力でなく、その実みな番頭や、手代らが真実に働いてくれました結果ですから、それぞれの年功の順番多少に従うて、分けてやるが至当だろうと思います。」と、勝海舟はその考えの尋常でないのに感心して賛成した。なお、定次が慶應義塾の学校運営資金を提供したことは有名な話である。

 二つ目は、「私の所有に荒地が五、六反ござりますので、平生から何か近辺の貧民のためになるようにつかいましょうと存じて、いろいろと考えましたが、この荒地へサクラ、カエデ等を植え付けました。この辺の貧民等は春がきても吉野の花見にもいけませず、秋がきたとて栂尾の紅葉を見られるきょうがいでもなく、年中汗をたらして苦労するばかりで、少しもなぐさみというものがありませんから、実は彼らの春の楽しみにもと存じまして、サクラを植えました訳ですが、今はそのサクラとカエデもよほど大きくなりまして、村中の快楽の場所となりまして、一つの公園ができました。
 いったい人間には、こんな無形な快楽というものも、ぜひ何かなくてはなりませんから、そこで、こうゆうふうな考えを起こしました訳で、少しばかりの地所を無代で貸してやるよりは、結局この方がためになりましょうと存じます」といった。

【参考】:塚本定次の逸話は、「勝海舟全集14」(頸草書房、江藤淳・勝部真長編集)より



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十二年(2010年)十一月作成