『校正通議』(こうせいつうぎ)

    


タイトル:校正通議(こうせいつうぎ)

著者:頼襄子成(頼山陽)

出版書写事項:不明
       内容は弘化四年六月版と同じ
       頼氏蔵版(頼氏正本)

形態:三巻全三冊 和装大本(B5版)

同校:男 頼元恊・頼復・頼醇
   門人 後藤機

発行書房:江戸 須原屋茂兵衛
        山城屋佐兵衛
        岡田屋嘉七
     京都 菱屋孫兵衛
     大阪 敦賀屋九兵衛
        敦賀屋彦七
        象牙屋治郎兵衛

目録番号:win-0010008



校正通議』の解説

 頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)の経世家としての側面がよくあらわれているのが、この「校正通議」(以下、通議と表記)である。山陽の著述したものは、歴史を語りながら現在を諷刺して、未来の在るべき姿を示唆し経世のための立論を提示して、読者を鼓舞する手法が駆使されている。特に通議は、はじめから論策を意識して脱稿を重ねたものである。また、文化元年(1804年)に脱稿した「新策」を改編したのが通議である。

 外史と政記の解説で触れた通り、司馬遷の『史記』は「十二本紀・十表・八書・三十世家・七十列伝」の全百三十巻であるが、山陽はこれを模範として「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の構想を立てた。外史全二十二巻は十三世家に相当し「日本政記」が三紀に、「新策」「通議」が五書・九議・二十三策に相当する。山陽は、死の直前まで「日本外史」「日本政記」「新策」と合わせて「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の構想は一応完結したことになる。

 「新策」については、安政二年版の「新策正本」の項目で詳しく解説したが、「新策」は山陽が二十五歳の文化元年(1804年)には脱稿して、文化四年(1807年)に補稿している。そして、天保元年(1830年)に「通議」と改編して脱稿が完了した。また、通議の初出版は天保十一年(1840年)で政記・外史と同じく拙修斎叢書(江戸後期に中西忠蔵が刊行した書籍で、得難い写本や出版の難しい政事向きの書から成り、規制のゆるやかな活字本ゆえの貴重な刊行事業とされている。)の和装大本(B5版)サイズの木活字版である。

 なお、今回提示した「校正通議」は発行年が不明であるが、版の体裁・内容は弘化四年(1847年)と同等である。また、校正者に頼元恊(聿庵)・頼復(支峯)・頼醇(三樹)の遺子と門人の後藤機(松陰)の四人が名を連ねている。

 江戸幕府の政治を批判するのに、「日本外史」と「日本政記」と同様に、「過去の例証を提示して擬装した」と門人の村瀬藤城に伝えている。村瀬藤城は尾張藩五十三カ村の総庄屋で、民政については深い理解があった敬虔な山陽の門人である。そして、通議は政治全般にわたる意見書の体裁となっている。

 まず、時代の勢いを論じ、権力を論じ、時宜を論じ、国防を論じて、外史と政記の反響の勢いに乗って、江戸幕府への政治批判の度を強めていく。歴代の君王や権臣の例を提示しながら、当時の大奥政治や将軍の妻妾や侍女たちによって、政治が正規な機関によって決定されず、幕府をかたむけ、人民を苦しめていると糾弾の手を緩めない論調が続く。

 天保三年(1832年)九月、山陽の絶筆とならんとする「通議」も校正を経て完成する。この経世済民の絶叫に感動した読者の中には、安政の大獄で刑死したものが多い。たとえば、越前藩の橋本左内(天保五年・1834~安政六年・1859)は藩校の「明道館」で教材として使い、長州藩の吉田松陰(文政十三年・1830~安政六年・1859)は松下村塾で「日本政記」と併せて「通議」を門下生に授けたのである。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十二年(2010年)八月作成