『枕草子春曙抄』(まくらのそうししゅんしょしょう)

    


タイトル:枕草子春曙抄(まくらのそうししゅんしょしょう)

著者:北村季吟

出版書写事項:明治廿七年(1894年)第二版発行

形態:全三冊 和装中本(A5変形版)

訂正増補:鈴木弘恭

版心:東京書林 青山清吉蔵版

故北村季吟相続人:吉川半七

発行者:青山清吉

印刷者:根岸高光

印刷所:㈱秀英舎第一工場

賣捌人:林平次郎

目録番号:nihon-0010005



枕草子春曙抄』の解説

 「枕草子(まくらのそうし)」は、平安時代中期に中宮定子こと藤原定子(ふじわらのさだこ・貞元二年・977~長保二年・1001)に仕えていた清少納言(せいしょうなごん・康保三年・966?~万寿二年・1025?)が執筆したと伝わる随筆本である。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、古来から「清少納言記」「清少納言抄」などとも呼称されたとも伝わっている。また「枕草子」は、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」とあわせて日本三大随筆とも呼ばれている。

 「枕草子」の命名の由来は、内大臣の藤原伊周(ふじわらのこれちか・天延二年・974~寛弘七年・1010)が一条天皇と中宮定子こと藤原定子に当時高価だった料紙を献上した時、「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書くか」という定子の問いに対し、清少納言が「枕にこそは侍らめ」(三巻本系)と返答したので、「それでは少納言に与えよう」とそのまま料紙を下賜されたとあり、「枕草紙」の名もそこから由来したというのが通説である。

 中宮定子こと藤原定子は、第六十六代の一条天皇の皇后で、中宮と号し、後に皇后宮となる。定子の一生は不幸続きでもあり、史上はじめての「一帝二后」(一条天皇・定子皇后宮・彰子皇后宮)を経験することとなる。崩御に臨んで定子が書き残した遺詠は、「後拾遺和歌集」に遺され、小倉百人一首の原撰本「百人秀歌」にも採用されている。

 清少納言は女房名であるが、「清」は清原姓に「少納言」は親族の役職名に由来すると推定されている。しかし、親族で少納言の官職に就いた人物は不在である。実名についても「諾子(なぎこ)」という説もあるが、不明である。漢学にも通暁し「三十六歌仙」の一人でもある清少納言は、「後拾遺和歌集」などの勅撰和歌集には十五首も掲載されている。

 また、「三十六歌仙」の一人でもある父の清原元輔(きよはらのもとすけ・延喜八年・908~永祚二年・990)が周防守として赴任に際し同行した四年の歳月を「鄙(ひな:京の対義語で「田舎」の意味)」で暮らすが、「枕草子」の中での船旅の描写は現実味があり、この間の京への想いは、後の京(みやこ)への憧れに繋がったとも推定されている。

 清少納言と同時代を生きたと推定されている「源氏物語」の著者である紫式部(生没年不詳)とのライバル関係の議論は、研究者の間で論争が絶えない。しかし、紫式部が中宮彰子に仕えたのは、清少納言が宮仕えを退いてから後のことで、二人は一面識も無いはずである。中宮定子が出産時に亡くなってすぐ、清少納言は宮仕えを辞し、その後の清少納言の動向は不明である。ただし、再婚相手の藤原棟世(ふじわらのむねよ・生没年不詳)の任地である摂津で暮らしたと思われる。そして、晩年には現在の京都泉涌寺近く(東山月輪)に居住し、藤原公任(ふじわらのきんとう・康保三年・966~長久二年・1041)・和泉式部(いずみしきぶ・天元元年・978~没年不詳)や中宮彰子付の女房たちとの交流を窺わせる記録が残っている。

 「枕草子」の内容については伝本によってかなりの相違があり、現在ではおおよそ雑纂形態(三巻本・能因本)と類纂形態(堺本・前田本)の二つの系統に分けられている。「源氏物語」は内面的な心情を強調した「もののあはれ」を表現した作品に仕上げられているが、三百二十段で構成されている「枕草子」は感受性豊かな清少納言のセンスが感じられ、とりまく環境への鋭い観察眼により平安時代の趣が窺われ、知性的な「をかし」の美意識が強調されている。

 「枕草子春曙抄」は、江戸時代の初期に北村季吟(きたむらきぎん・寛永元年・1625~宝永二年・1705)が著述した「枕草子」の注釈書で、「抄」とは、「書き写す」「抜書きする」「注釈書」などの意味を持つ言葉である。この書籍は、江戸時代・明治時代を通して版を重ねて近世の最高峰の誉れを獲得している。

 北村季吟は、近江国野洲郡に生まれた医者である。湖月亭とも号した季吟は、貞門派俳諧の新鋭と呼ばれ、和歌や歌学を学び、「土佐日記抄」「伊勢物語拾穂抄」「源氏物語湖月抄」などの注釈書を著述した。江戸幕府の歌学方として仕え、北村家が江戸幕府の歌学方を世襲することになる。ちなみに、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉(まつおばしょう・寛永二十一年・1644~元禄七年・1694)は季吟の門人である。

 今回紹介する訂正増補「枕草子春曙抄」は、明治時代の国文学者の鈴木弘恭(すずきひろやす・天保十四年・1844~明治三十年・1897)が訂正増補した書籍である。鈴木弘恭は、幕末の水戸藩士で藩校の弘道館で学んだ。そして、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大)・華族女学校(現在の学習院)などで教鞭を振るっている。十八公舎と号し、「日本文学史略」などの著作を持つ国文学者であった。

 この書籍には鈴木弘恭の師匠である黒川眞賴(くろかわまより・文政十二年・1829~明治三十九年・1906)が序を寄せているが、鈴木弘恭の緒言では、「こたび万歳抄。活字本。清水濱臣校合本。黒川春村校合本。天文五年古鈔本。其の他一二の異本をもて訂正を加へ。ならびに假字の誤をもかきあらため。さて舊註に漏れたる所。或はあやまれるふしのあるは。加藤盤斎。清水濱臣の考。并に契沖阿闍梨。石原正明。橘千蔭。黒川春村等。先達の説をもてこれを増補す。」と訂正増補の次第を説明して、真実の「枕草紙」を追究していることが優れた点である。

 また、北村季吟の相続人である吉川半七は、現代まで「歴史」にこだわった国文学研究書等を出版し続けている老舗出版社である「吉川書房(吉川弘文館)」の創業者である。「吉川弘文館」は、出版業界の偉業と呼ばれている「国史大辞典」を出版したり、日本史研究を志す学者が必ず出版を試みる出版社としても有名である。

 そして、「清少納言枕草子者中古之遺風和語之俊烈也并義於紫女源氏物語尤当閲翫之者也」で始まる「延寶二年甲寅七月十七日 北村季吟書」の跋が掲載されている。また、巻末には附録として壺井義知が諸抄に漏れた部分を補って著述した「清少納言枕草紙装束撮要抄」(装束抄)が合綴されて、上(巻一~巻四)・中(巻五~巻八)・下(巻九~巻十二)の全十二巻の百五十七段で構成され全三冊に纏められている。

【参考】 「黒川文庫」について

 黒川春村・黒川眞賴・黒川眞道の三代が蒐集した蔵書は、国文学研究にとっては大変貴重な資料で、神道関連書籍は國學院大學に、歌学関連書籍はノートルダム清心女子大学に、物語・随筆関連書籍は実践女子大学に保存され、各大学には「黒川文庫」が設置されている。その他、東京大学・日本大学・明治大学・二松学舎大学などにも所蔵されている。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十四年(2012年)七月作成