『李忠定公奏議選』(りちゅうていこうそうぎせん)

    


タイトル:李忠定公奏議選(りちゅうていこうそうぎせん)

著者:李鋼

選:頼山陽

出版書写事項:安政四年(1857年)夏新刻
       (早稲田大学所蔵本と同等)
       江戸 書林 玉山堂

形態:一巻全一冊 和装大本(B5版)

刊行:京寺町通松原 勝村治右衛門
   大阪心斎橋北久太郎町 河内屋喜兵衛
   江戸日本橋通二丁目 山城屋佐兵衛

目録番号:koten-0020002



李忠定公奏議選』の解説

 「李忠定」(りちゅうてい)は、宋の李鋼(1085年~1140年)のことである。李忠定が活躍した時代は、日本では日宋貿易で有名な平清盛(1118年~1181年)が生きた時代に当たる。当時の宋は金国の侵攻に悩まされていた。李忠定こと李鋼は、北宋の欽宗時代には兵部侍郎となり、「靖康の変」(北宋滅亡の事変)では主戦派として金軍の侵攻を防いだ。南宋の高宗時代には中書侍郎として活躍し、主戦派として南宋建国のために働いた中央官僚であった。

 今回紹介する「李忠定公奏議選」は、李忠定が上奏した議論を纏めた全六十九巻の「李忠定公奏議」から頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)が十編を選び出し紹介した書籍である。頼山陽については「頼山陽 関連書籍」で解説したので省略するが、李忠定の略歴については、この書籍の「李忠定公略傳」に詳しい。

 李忠定は、徽宗の政和二年に進士に合格し、官監察御史兼権殿中侍御史を歴任する。宣和七年に太常少卿として主戦論を展開し、欽宗が後を継いで「靖康の変」(北宋滅亡の事変)では主戦派として金軍の侵攻を防いだ。そして、南宋の高宗時代の建炎元年には尚書右僕射兼中書侍郎として主戦論を展開して南宋建国のために働いた。紹興三年には観文殿学士、紹興四年には再び金軍の侵攻を防いだ。七年には建炎四年から金国の傀儡政権であった斉の劉豫を廃して金国は直接支配を開始する。「紹興十年正月卒五十八」と記録されている。李忠定の功績が大きかったのか、南宋は150有余年存続した。

 ここでは、参考までに目録に収められた十編の題目を記載しておく。

 「召赴文字痹祇侯引對箚子」
 「辭免知枢密院箚子」
 「上皇帝封事」
 「議国是」
 「乞於河西北路置招撫司河東路置経制司箚子」
 「議巡幸第一箚子」
 「議巡幸第二箚子」
 「奉詔條具邊防利害奏状」
 「陳捍禦賊馬奏状」
 「論進兵箚子」

 そして、この書籍を熟読した人物で有名な幕末の武士が河井継之助(文政十年・1827~慶應四年・1868)であった。まさに、西洋列強の侵略に苛まれた幕末日本は河井にとって「李忠定公奏議」を創出した「北宋南宋時代そのものである」と感じたのかもしれない。

 河井継之助は、越後長岡藩の武士として生まれ、後に家老職を務める。少年時代から読書家で書物の筆写に励み、寛政の三博士で有名な古賀精里の孫にあたる 古賀謹一郎こと古賀茶渓(文化十三年・1816年~明治十七年・1884年)の久敬舎に入門した時には、「李忠定公集」を見つけ出し丹念に筆写したことは有名である。また、佐久間象山に入門した時には、象山から「李忠定公集」の筆写を激励され題簽を書いてもらった。その後、「南洲手抄言志録」で解説した備中松山の山田方谷に入門し、王文成や李忠定の文集、陸宣公の奏議文などを勉強したことを「塵壺」と名づけた日記帳に記録している。また、この「塵壺」には、文章軌範山陽外史標註傳習録東坡集などの読書記録も掲載されている。

 最後に、幕末から明治に活躍した古賀茶渓こと古賀謹一郎(文化十三年・1816年~明治十七年・1884年)について触れておく。

 古賀謹一郎は、寛政の三博士で有名な古賀精里の孫にあたる儒学者であるが、洋学の必要性を早くから提唱した官僚でもあった。茶渓と号したが、本姓は劉で高祖劉邦の末裔であると伝わっている。安政の改革を推進した老中阿部正弘に抜擢されて、勝海舟などと 洋学研究機関である「蕃書調所」の開設を進言し頭取(校長)に就任した。登用した教授たちの中には、大村益次郎・加藤弘之・津田真道・寺島宗則・中村敬宇・西周・箕作秋坪など明治維新後に活躍した逸材が参画した。なお、蕃書調所は後に開成所となり東京大学の前身でもある。また、古賀が経営した久敬舎の門人には、秋月悌次郎・大野右仲・河井継之助・阪谷朗廬・重野安繹・原市之進・平田東助などの逸材を輩出した。

【参考】ながおかネット・ミュージアム 塵壺



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)八月作成