『謝選拾遺』(しゃせんしゅうい)

    


タイトル:謝選拾遺(しゃせんしゅうい)

著者:頼山陽

叙:桂月牧輗(牧百峰)

出版書写事項:明治十七年(1884年)五月刻成

形態:七巻全三冊 和装大本(A5版)

編輯人:頼久太郎

反刻人:塩治芳兵衛

賣捌人:前川善兵衛

大阪書肆 前川文栄堂

目録番号:koten-0020005



謝選拾遺』の解説

 「謝選拾遺」の「謝」とは、謝畳山こと謝枋得(しゃぼうとく・1226年~1298年)のことで、謝氏が編纂した「文章軌範」から頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)が選定して編纂した書籍である。また、「拾遺」とは洩れ落ちたものを拾い集め補うとの意味である。なお、頼山陽については「頼山陽 関連目録」で解説したので省略する。そして、叙を担当した桂月牧輗こと牧百峰(享和元年・1801~文久三年・1863)は、京都に住んだ頼山陽の門人で、山陽の存命中に発刊した「日本楽府」に註釈を付した人物である。

 中国の南宋時代の謝枋得は、南宋末期の政治家で、当時の国境守備隊長であった。後に、宰相となる賈似道(かじどう・1213年~1275年)を批判し疎まれて左遷され、最前線で元軍と戦うが南宋滅亡を見ることになる。南宋滅亡後、彼は姓を変えて占いで生計を立てながら門人を抱えたという。そして、元国からの誘いに対しては「亡国の大夫」であると拒絶するが、元国からの再三の強要に屈して北京に赴く、しかし道中から断食を始め北京到着後、壮絶な死を迎える。

 「文章軌範」には模範文例となる十五家・六十九篇が全七巻に収録されているが、王守仁こと王陽明(1472年~1529年)が序で述べているように、「放膽文」や「小心文」に解説文を追加して全七十六篇を収録した。八大家の筆頭に掲げられた韓文公こと韓愈の文章が約半分の三十二篇、蘇東坡こと蘇軾の文章が十二篇と続き、柳宗元と欧陽脩の文章が各五篇など、「帰去来辞」と「出師表」を除けば全て唐宋時代の文章を収録している。

 頼山陽は、「文章軌範」から蘇東坡(1036年~1101年)の文章を十五篇(文章軌範以外の篇を追記)も抽出している。どうも彼のお気に入りは蘇東坡であったようである。

 今回は、蘇軾の「放鶴亭記」を紹介しようと思う。中国の江蘇省徐州市の観光名勝にもなっている雲龍湖と雲龍山の風光明媚な美しい街に「放鶴亭」は現存している。徐州(当時は「彭城」)は項羽も都と定めた地として有名で、蘇軾がこの地の郡守であったときに、雲龍山に友人の雲龍山人張君が「放鶴亭」を建てて酒を酌み交わし、友情を深めたときの詩文である。

 中国の「賢人・賢者」の定義は時代とともに変化し、宋時代になると知識と徳の有無だけが条件ではなく、世俗を離れた隠遁生活による「清楚な孤高の人」のイメージを生み、「清白な鶴」を象徴として愛する詩情が形成されることになる。蘇軾も「山・湖・鶴・人」を巧みに操り謳い上げた。


【放鶴亭記 蘇東坡】

熙寧十年秋 彭城大水 雲龍山人張君之草堂 水及其半扉 明年春水落 遷於故居之東 東山之麓 升高而望 得異境焉  作亭於其上 彭城之山 岡嶺四合 隱然如大環 獨缺其西十二 而山人之亭 適當其缺 春夏之交 草木際天 秋冬雪月  千里一色 風雨晦明之間 俯仰百變 山人有二鶴 甚馴而善飛 旦則望西山之缺而放焉 縱其所如 或立於陂田 或翔於雲表  暮則傃東山而歸 故名之曰放鶴亭 郡守蘇軾 時從賓客僚吏 往見山人 飲酒於斯亭而樂之 揖山人而告之曰 子知隱居之樂乎  雖南面之君 未可與易也 易曰 鳴鶴在陰 其子和之 詩曰 鶴鳴于九皐 聲聞于天 蓋其為物 清遠閑放 超然於塵埃之外  故易詩人 以比賢人君子隱德之士 狎而玩之 宜若有益而無損者 然衞懿公好鶴 則亡其國 周公作酒誥 衞武公作抑戒  以為荒惑敗亂 無若酒者 而劉伶阮籍之徒 以此全其真而名後世 嗟夫 南面之君 雖清遠閑放如鶴者 猶不得好 好之則亡其國  而山林遯世之士 雖荒惑敗亂如酒者 猶不能為害 而況於鶴乎 由此觀之 其為樂 未可以同日而語也 山人欣然而笑曰 有是哉  乃作放鶴招鶴之歌曰 鶴飛去兮 西山之缺 高翔而下覽兮 擇所適 翻然斂翼 婉將集兮 忽何所見 矯然而復撃 獨終日於澗  谷之間 兮啄蒼苔而履白石 鶴歸來兮 東山之陰 其下有人兮 黄冠草屨 葛衣而鼓琴 躬耕而食兮 其餘以汝飽 歸來歸來兮  西山不可以久留 

【読下し文】

熙寧十年、秋、彭城、大水あり、雲龍山人張君の草堂は、水其の半扉に及ぶ。明年春、水落ち、故居の東、東山の麓に遷り、 高きに升りて望み、異境を得て、亭を其の上に作る。彭城の山は、岡嶺四合し隱然として大環の如く、獨り其の西十二を缺く、 山人の亭は適に其の缺に当たる。春夏の交、草木天に際し、秋冬の雪月、千里一色、風雨晦明の間、俯仰百變す。 山人二鶴有り、甚だ馴て善く飛ぶ。旦には則ち西山の缺を望みて放ち、其の如く所を縦にする。 或は陂田に立ち、或は雲表に翔る。暮には則ち東山に傃(むか)って歸る。故に之を名づけて「放鶴亭」と日う。 郡守蘇軾、時に賓客僚吏を從へ往いて山人を見、酒を斯の亭に飲み之を樂しむ。山人を揖して之に告げて曰く、 「子 隱居の樂しみを知るや 南面の君と雖も 未だ與に易うべかざる也」 易に曰く、「鳴鶴 陰に在り 其の子 之に和す」と。 詩に曰く、「鶴 九皐に鳴き 聲 天に聞こえる」と。蓋し其の物たる清遠閑放にして塵埃の外に超然たり。 故に易詩人、以って賢人君子隱德の士に比す。狎れて之を玩(もてあそぶ)は、宜しく益有りて損無き者の若くなるべし。 然し、衞懿公は鶴を好み、則て其の國を亡ぼす。周公は酒誥を作り、衞武公は抑戒を作り、以為(おもえらく)荒惑敗亂すること、酒に若く者無しと。 そして、劉伶阮籍の徒は、此を以って其真を全くして後世に名あり。 嗟夫(ああ)、南面の君は、清遠閑放なること鶴の如き者と雖も、猶も好むを得ず。之を好めば則ち其の國を亡ぼす。 そして、山林遯世の士は、荒惑敗亂すること酒の如き者と雖も、猶も害を為す能はず。況や鶴に於いてをや。 此に由りて之を觀れば、其の樂しみ、未だ以って日を同じくして語る可からざる也。 山人欣然として笑って曰く、是有る哉と。乃ち放鶴招鶴の歌を作って曰く、鶴飛び去る、西山の缺、高翔して下覽し、適(ゆ)く所を擇ぶ。 翻然として翼を斂(おさ)め、婉として將に集(とど)まらんとす。忽ち何の見る所ぞ、矯然として復た撃つ。 獨り日を澗谷の間に終へ、蒼苔を啄みて白石を履む。鶴歸り來る、東山の陰。 其の下に人有り、黄冠草屨、葛衣にして琴を鼓し、躬(みずか)ら耕して食う。其の餘は以て汝を飽かせる。 歸り來れ歸り來れ、西山は以って久しく留まる可からず。


 なお、正岡子規(慶應三年・1867~明治三十五年・1902)は旧制松山中学時代に、この「謝選拾遺」を学校から贈呈された。 しかし、あまりにも難解であったので、旧松山藩の河東静渓(文政十三年・1830~明治二十七年・1894) から「唐宋八大家文」「文章軌範」 「謝選拾遺」などの講義を受けている。

 河東静渓は、松山藩の藩校「明教館」の教授を務め、私塾の「千船学舎」を経営して門弟の教育に力を注いだ人物である。 藩校の明教館は旧制松山中学校の母体となった教育機関で、この旧制松山中学校は人材の宝庫であった。 ちなみに、卒業生には正岡子規(俳人)・高浜虚子(俳人)・河東碧梧桐(俳人)・松根東洋城(俳人) ・秋山好古、真之(軍人)・伊丹万作(映画監督)・山本薩夫(映画監督)・大石慎三郎(歴史学者)・大友柳太朗(俳優) ・勝田銀次郎(第八代神戸市長)など多才な人材を輩出し、夏目漱石(慶應三年・1867~大正五年・1916) が英語教師を勤めていたことは有名である。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)十月作成