『古今和歌集講義』(こきんわかしゅうこうぎ)

    


タイトル:古今和歌集講義(こきんわかしゅうこうぎ)

著者:登茂飛称

出版書写事項:明治廿六年(1893年)発行

形態:二巻全二冊 (A5版)

講義:賀茂真淵

校正兼発行者:鈴木常松

印刷者:前野茂久次

専売所:大阪積善館・積善館支店・出雲寺萬二郎・水野慶二郎

目録番号:nihon-0010003



古今和歌集講義』の解説

 「古今和歌集」は、平安時代初期に編纂された勅撰の和歌集で、「二十一代集」の筆頭を飾る最も古い勅撰和歌集である。醍醐天皇(だいご・元慶九年・885~延長八年・930)の命により、紀貫之(きのつらゆき・貞観八年・866~天慶八年・945)・紀友則(きのとものり・承和十二年・845~延喜七年・907)・壬生忠岑(みぶのただみね・貞観二年・860~延喜二十年・920)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね・貞観元年・859~延長三年・925)の四人が編纂撰者となって延喜五年(905年)に奏上された。

 醍醐天皇は、源定省(後の宇多天皇)の長男で源維城(みなもとのこれざね)として生まれ、皇籍復帰した宇多天皇の第一親王となり第六十代天皇となった。三十六人の親王・内親王を儲け、摂関を置かず親政を三十四年も行い、その政治は「延喜の治」と呼ばれ、以後の天皇親政の手本となる。また、醍醐天皇は、藤原時平の讒言により宇多上皇の信任厚かった菅原道真を左遷した「昌泰の変」により不評をかうが、紀氏を重用して親政を確立した。なお、陵墓が醍醐天皇の勅願により建造された京都の醍醐寺の近隣に存在していたため「醍醐天皇」と追号されたが、本来は「延喜帝」と呼ばれた。

 紀貫之は、「三十六歌仙」の一人で「小倉百人一首」にも登場している歌人であり、勅撰和歌集において最多の収録数を誇る歌人でもある。また、日本最古の日記文学である「土佐日記」の作者としても有名である。貫之は、古来から歌人の模範とされ、現代歌人にも根強い人気がある。貫之の邸宅は、古い資料から推測すると、現在の京都御苑の「富小路広場」付近に十二町もの広さで存在し、「櫻町」と呼ばれた桜の名勝でもあったようである。

 紀友則は、貫之の従兄弟にあたり、政治の世界では四十歳を過ぎるまで無官の遅咲きであったが、歌の世界では「三十六歌仙」の一人として有名である。国語の教科書にも採用されている「久方の ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」の歌は、「百人一首」にも採用された「古今和歌集」の収録歌として有名である。

 なお、現在までに判明している平安京の構造について触れておく。

 平安京は、中国の長安城を模範として、南北約5.2km・東西約4.5kmの「都城制」で構成されていた。北部には皇居にあたる「大内裏」が設置され、南部には「羅城門」が建造された。中心を貫通する平安京のメインストリートの「朱雀大路(現在の千本通りに当たり、幅は約80mあったという)」によって「右京」と「左京」に二分され、それぞれ「洛陽」「長安」とも美称された。しかし、右京は低湿地帯のため宅地化が進まず荒廃し、「長安」は消滅して「洛陽」の名のみ残り、京都に来ることを「上洛」と呼んだ起源ともなった。

 中国の都城を模範にした「条坊制」で碁盤の目のように張り巡らされた道路で区切られ、東西の大路で「条」、南北の大路で「坊」「保」、その間に小路で区切られた「町」が存在した。最小単位は「一町」で、四町で「一保」、十六町で「一坊」、六十四町で「一条」の大ブロックとなる。右京・左京それぞれに「西市」「東市」が設けられ十二町の巨大市場として生活経済を支えていた。

 右京が荒廃した後、京(みやこ)の京内の東北部は貴族らの富裕層が占拠して貧民は京外の東北部に流出した。後には京都御所を中心とする「上京」が成立して、現在でも京都市の北部は富裕層の居宅が軒を並べている。南には四条烏丸当たりを中心に「下京」が成立して、「町衆」の生活領域が拡大されたようである。

 天皇勅命による国家事業としての勅撰和歌集の流れを生み出した「古今和歌集」は、「萬葉集」に選ばれなかった歌や当代以前の古い歌を多く収録している。現存書写本は、奏上された延喜五年以降の歌も収録していることが確認されており、改訂されていることがわかる。国風文化の基礎を固めた作品でもあり、清少納言の「枕草子」などには、「古今和歌集」を暗誦することが平安貴族の教養科目であったことが記載されている。また、鎌倉時代以降になると師匠から講義解釈を伝授された「古今集伝承講義」が定着して、和歌の手本ともなったのである。

 「二十一代集」と呼ばれる勅撰和歌集は、天皇や上皇による勅命による和歌集で、「古今和歌集」から始まって「後撰和歌集」「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」「金葉和歌集」「詞花和歌集」「千載和歌集」「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」「続後撰和歌集」「続古今和歌集」「続拾遺和歌集」「新後撰和歌集」「玉葉和歌集」「続千載和歌集」「続後拾遺和歌集」「風雅和歌集」「新千載和歌集」「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」「新続古今和歌集」の二十一の和歌集である。また、南北朝時代に南朝が編纂した「新葉和歌集」は準勅撰和歌集とも呼ばれている。

 今回紹介する「古今和歌集講義」は、江戸時代の国学者である賀茂真淵(かものまぶち・元禄十年・1697~明和六年・1769)が講義し、登茂飛称(生没年不詳)が聴講して纏めた書籍を明治時代に校正した国文教科書である。賀茂真淵は、遠江国の賀茂神社の末社の神官の家に生まれ、後に御三卿の田安徳川家に仕え、荷田春満・平田篤胤・本居宣長と共に「国学の四大人(しうし)」と呼ばれた。古代日本人の精神を探求して「歌意考」「万葉考」「国意考」「祝詞考」「文意考」「五意考」「冠辞考」「神楽考」などを著述した。

 現存最古の書写本は、「傳紀貫之書」と伝えられている「高野切」であるが、現代において「古今和歌集」として読まれているのは、鎌倉時代に活躍した藤原定家(ふじわらのさだいえ・応保二年・1162~仁治二年・1241)の書写本を定本にしたものが多いようである。賀茂真淵が講義したのもその書写本である。

 長命だった藤原定家は、藤原道長(ふじわらのみちなが・康保三年・966~万寿四年・1028)の曾孫にあたるが、官位には恵まれず出世の道からは外れた存在であった。定家は、「新古今和歌集」と「新勅撰和歌集」の二つの撰者となり、私撰和歌集の「小倉百人一首」の撰者ともなった。そして、「源氏物語」「土佐日記」の書写にも関わり、日記文学で国宝ともなっている「明月記」(冷泉家時雨亭文庫蔵:「熊野行幸記」は有名)を遺している。

【参考】「平安京創生館」「平安時代の平安京




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十四年(2012年)六月作成