『土左日記考證』(とさにっきこうしょう)

    


タイトル:『土左日記考證』(とさにっきこうしょう)

著者:岸本由豆流

出版書写事項:明治期 文政十二年(1829年)の後刷

形態:上下巻全二冊 和装中本(B5版)

東京書肆:北畠千鍾房 須原屋茂兵衛

目録番号:nihon-0030006



土左日記考證』の解説

 紀貫之(きのつらゆき・貞観八年か十四年・866か872~天慶八年・945)が著述した日本最古の日記文学と推定されている『土佐日記(とさにっき)』は、古来から『土左日記』と表記されていた。

 今回紹介する『土左日記考證』は、江戸時代後期に活躍した岸本由豆流(きしもとゆずる・寛政元年・1789~弘化三年・1846)が著述した『土左日記』の解釈本である。尚古考証園と号した岸本由豆流は、伊勢国朝田村で朝田某の子として生まれ、後に、幕府弓弦師の岸本讃岐の養子となり岸本大隅と称し、早くから家業の弓弦師を長男に譲って退隠して考証著作に専念した。国学者村田春海に入門し国学を学び、蔵書が三万巻にも及んだという典籍の蒐集家でもあった。

 村田春海(むらたはるみ・延享三年・1746~文化八年・1811)は、江戸時代中期から後期に活躍した国学者で歌人でもあり、賀茂真淵門下で県門の四天王の一人である。頼山陽著述の『日本外史』でも紹介した白河藩主で老中であった松平定信の信任を得て、江戸派歌人の橘千蔭とは双璧をなした。また、林子平著述の『海国兵談』でも紹介した仙台藩の藩医であった工藤球卿こと工藤平助とも親交があった。

 『土左日記』は、ある時期まで貫之自筆のものが伝わり、鎌倉時代までは京都蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵に納められていたが、後に歌人尭孝の手に渡り、さらに足利義政に献上されてからは足利将軍家の所蔵となっていたが、応仁の乱の影響もありその後の消息については絶えている。

 歌人の尭孝(ぎょうこう・明徳二年・1391~享徳四年・1455)は、代々武家の二階堂氏であるが、室町時代中期に活躍した僧で、父も僧で歌人の尭尋である。曽祖父から引き継いだ和歌所を預かり、二条派の歌壇の中心的歌人となり冷泉派に対抗した。

 『土左日記』の写本は、藤原定家・藤原為家・松木宗綱・三条西実隆らにより筆写された四系統が伝わっている。特に、定家本と為家本は貫之自筆本の再構成には貴重な存在で、定家本は巻末に見開き二頁を使って貫之自筆本の巻尾を臨書し、その臨書は原本が失われた今では貫之の筆跡を偲ぶことができる極めて貴重な書籍である。定家の息子である為家の写本については、定家臨書の翌年に筆写した奥書に「紀氏正本書写之一字不違」と記してある。

 紀貫之は、平安時代前期の歌人で三十六歌仙の一人でもある。藤原定家が撰した『小倉百人一首』にも登場している歌人であるが、勅撰和歌集において最多の収録数を誇る歌人でもある。貫之は、古来から歌人の模範とされ、現代歌人にも根強い人気がある。貫之の邸宅は、古い資料から推測すると、現在の京都御苑の「富小路広場」付近に十二町もの広さで存在し、「櫻町」と呼ばれた桜の名勝でもあったようである。

 また、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に編纂し、仮名による「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まる仮名序を執筆し、後代の文学にも大きな影響を与えた。紀友則は、貫之の従兄弟にあたり、政治の世界では四十歳を過ぎるまで無官の遅咲きであったが、歌の世界では「三十六歌仙」の一人として有名である。国語の教科書にも採用されている「久方の ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ」の歌は、『小倉百人一首』にも採用された『古今和歌集』の収録歌として有名である。

 『土左日記』は、貫之が赴任先の土佐国から京に帰る途中に起きた出来事を綴った日記文学であるが、紀行文の性質をも有している。当時は「具注暦」があって、公家や役人は漢文で日記日録をつける習慣をもっていたので、貫之も漢文日録を付け後に仮名の文章に書き直した可能性が高いが、道中から仮名備忘録を綴っていた可能性も考えられる。

 貫之は高齢で土佐国に国司として赴任していたが、その任期を終えて土佐から京へ帰る五十五日間の旅路と考えられる話を、書き手を女性に装い得意とする仮名で日記風に綴った。前述の通り当時の男性の日記は漢文で綴るのが通例であったが、得意とする仮名を使用して、土佐国で亡くなった愛娘を思う心情や行程の遅れによる帰京への思いを五十七首にも及ぶ和歌を含めて物語風に仕立て上げた。

 私こと樹冠人の憧れでもある紀貫之という人は、実に多才で頭脳明晰な自由人である。冒頭の「ある人、縣の四年五年果てて、例のことどもみなしをへて、解由などとりて、住む館よりいでて、舟にのるべきところにわたる」など、自分自身を「ある人」とし、或る女が眺めている「ある人」の旅の道中という風に物語して、挿入した歌も貫之が創作していながら、別の「ある人」の歌の引用に見せかけたりもしているのである。まさしく、二重の擬装であり三重の仮託である。

 そして、貫之が表現した前代未聞の「仮名文学」は、現代日本人の精神的支柱を構築する先駆けであり、その影響力は絶大であると感じる。まさに、その精神性は女流日記文学の先駆けと推定されている藤原道綱母の『かげろふの日記』に影響を与え、『和泉式部日記』『紫日記(紫式部日記)』『更科日記』など以後の女性作家たちの日記文学にも大きな影響を与えていると思われる。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十六年(2014年)三月作成