『殉難前草』(じゅんなんぜんそう)


タイトル:殉難前草(じゅんなんぜんそう)
編者:青雲閣兼文(西村兼文)
出版書写事項:慶應戊辰四年(1868年)初夏
書肆:浪華書肆 河内屋喜兵衛 塩屋弥七 河内屋勘助
尾州書肆 菱屋藤兵衛
皇都書肆 近江屋卯兵衛梓
形態:一巻全一冊 和装中本(B6版)
目録番号:win-0060005
『殉難前草』の解説
今回紹介する「殉難前草」は、江戸幕末の京都西本願寺の侍臣で尊皇攘夷派であった青雲閣兼文こと西村兼文(天保三年・1832~明治二十九年・1896)が編纂した殉難志士の詩文集である。
城兼文こと西村兼文は、勤皇の志士たちとの交流のために西国から九州を遊歴して、京都の西本願寺に帰京した折に、本願寺は勤皇志士を取り締まる「新撰組」の常駐屯所になっていた。しかし、尊皇思想に賛同していた伊東甲子太郎(天保六年・1835~慶應三年・1867)や実弟の鈴木三樹三郎(天保八年・1837~大正八年・1919)などと交流して情報を蓄積して「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」を著したことは有名である。
また、兼文は憂国の殉難志士の詩文を収集して「青雲閣兼文」の名で慶應年間から「殉難前草」「殉難後草」「殉難遺草」「殉難續草」を発刊している。これらの書籍は明治二年(1869年)までに発刊されたものであるが、明治維新を見ることが出来なかった殉難の勤皇志士たちが登場するわけである。家老・学者・僧侶・思想指導者に留まらず、「安政の大獄」「桜田門外の変」「寺田屋事件」「池田屋事件」などで牢獄病没・刑死・暗殺死した政治闘争の犠牲者たちを紹介した。
なお、青雲閣兼文は前述の書籍以外にも、慶應年間には「元治甲子戦争記」(禁門の変がテーマ)や明治年間には「文明史略」(坂本龍馬見廻組暗殺説)・「近世報国赤心士鑑」「近世殉国一人一首」「近世報国志士小伝」なども出版した。
「殉難前草」は、吉田寅治郎矩方こと吉田松陰の「山河襟帯自然城」から始まる七言排律を冒頭に配して、若い命を日本国の将来のために捧げた七十七名の憂国の志士たちの辞世などが掲載されている。ここでは主な人物の略歴と辞世などを紹介することにした。
【吉田寅治郎矩方】(文政十三年・1830~安政六年・1859)
吉田松陰については、「松下村塾 関連目録」で紹介したので、略歴は省略する。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置かまし 大和魂」
「親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」
「今我為国死 死不背君親 悠々天地事 感賞在明神」
【梅田源治郎定明】(文化十二年・1815~安政六年・1859)
梅田源治郎定明こと梅田雲浜は、若狭国小浜藩士として生まれ、京都の藩塾「望楠軒」で講師を務め、藩主に建言したことで怒りに触れ浪人となる。また、尊皇攘夷の先駆けともなり、「安政の大獄」の二人目の逮捕者で、江戸にて獄死した。
述懐「君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり」
【成就院忍向】(文化十年・1813~安政五年・1858)
忍向というよりも西郷隆盛と錦江湾に入水して果てた京都の清水寺成就院の僧月照の名が有名である。月照は尊皇攘夷運動に身を置き、「安政の大獄」で追われて西郷と共に薩摩に向かうが受け入れられず、死を覚悟した。
辞世 「大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」
【安嶋帯刀】(文化八年・1811~安政六年・1859)
安嶋帯刀は、将軍継嗣問題では一橋派に属し、井伊大老から疎まれ「安政の大獄」で切腹を命じられた水戸藩の家老である。また、彼は日本初の軍艦「旭日丸」の建造に関与した功績は有名で、水戸藩史では「信立の審を受くる挙止慎重言句もせず、罪を一身に受け義によりて屈せず、幕府有司も皆其の器量徳量に感称し、其の死を惜しまざるはなし」と伝えている。なお、御三家の家老が投獄されるなど前代未聞であった。
辞世「たえてふく 嵐の風の はげしさに 何たまるべき 草の上の露」
【橋本左内】(天保五年・1834~安政六年・1859)
橋本左内は、越前国福井藩の藩士の家に生まれ、大阪の適々斎塾に入門して福沢諭吉・大鳥圭介などとは同門である。彼は開国派の急先鋒でもあり危険視され、将軍継嗣問題では藩主の松平春嶽を助け一橋派として擁立運動を展開した。「安政の大獄」では江戸の小塚原刑場で斬首された。
獄中作「苦寃難洗恨難禁 俯則悲痛仰則吟 昨夜城中霜始隕 誰識松柏後凋心」
【日下部伊三治信政】(文化十一年・1814~安政五年・1858)
日下部信政は、父が薩摩藩から脱藩して水戸藩に身を寄せた時に生まれ、藩主の島津斉彬に認められて薩摩藩に復帰する。将軍継嗣問題や条約勅許問題では水戸・薩摩の両藩の中心的存在となり京都で活動を展開した。水戸藩に密勅が下ると、江戸の水戸藩邸に届けたが、その事が発覚して「安政の大獄」を誘発する原因となる。江戸伝馬町の獄にて病没した。
「星斗闌干月満天 書窓深坐不就眠 欲知世運隆興兆 神武東征戊午年」
【頼三樹三郎醇】(文化八年・1825~安政六年・1859)
頼三樹三郎は、「日本楽府」「日本外史」「日本政記」などで有名な頼山陽(「頼山陽 関連目録」を参照)の三男である。京都の三本木で生まれて三樹と命名された。彼は大坂・江戸・奥州・蝦夷・羽州北陸を遊学するが、江戸遊学中に徳川家菩提寺の寛永寺の石灯籠を破壊して退学処分を受けたことは有名で、尊王思想が強い儒学者であった。「安政の大獄」で福山藩に幽閉され、頼山陽の弟子で「日本政記」の刊行を託された石川和助(関藤藤陰)によって厚遇されたが、橋本左内と同じく江戸の小塚原刑場で斬首された。
辞世「排雲手欲掃天螢 失脚墮耒江戸城 井底癡蛙過憂患 天邊大月欠高明
身従湯钁家無信 梦渡鯨濤剱有聲 他年風雨苔石面 誰題日本古狂生」
【有村治左衛門兼清】(天保九年・1839~安政七年・1860)
有村兼清は、薩摩藩の藩士として生まれ、北辰一刀流を窮め「桜田門外の変」の実行者で大老井伊直弼の首級を獲ったことで有名である。兼清は水戸藩の志士たちと交流関係が深く「安政の大獄」に義憤して薩摩藩では唯一「桜田門外の変」に参画した。井伊の首級を獲ったが、彦根藩士に斬りつけられ重傷を負い自害して果てた。
辞世「岩が根も 砕かざらめや もののふの 国の為にと 思い切る太刀」
【齋藤監物一徳】(文政五年・1822~万延元年・1860)
齋藤監物は、水戸藩の藤田東湖に学んだ弘道館内に設置された鹿島神社の神官である。徳川斉昭の蟄居謹慎の折には領内の神職を糾合して嘆願運動を展開した。また、「桜田門外の変」にも参画し負傷の後死去した。
辞世「国の為め 積る思ひも 天津日に 融けて嬉しき 今朝の淡雪」
【高橋多一郎愛諸】(文化十一年・1814~万延元年・1860)
高橋多一郎は、水戸藩士で「桜田門外の変」の首謀者の一人であった。徳川斉昭の側近の奥祐筆となり、斉昭が復帰してからは北郡奉行として農民兵の組織・郷校の建設などを推進して奥祐筆頭取となり改革派の中心人物であった。「桜田門外の変」では薩摩藩兵と合流するために、大坂の四天王寺に潜伏したが発覚して息子と共に自刀して果てた。
辞世「鳥が鳴く あづま男の まごころは 鹿島の里の あなたとぞ知れ」
【有馬新七】(文政八年・1825~文久二年・1862)
有馬新七は、崎門学派を学んで薩摩藩邸学問所の教授に就任した文武両道の薩摩藩士である。薩摩藩内の紛争で有名な「寺田屋騒動」では、相手を押し伏せて覚悟して「おいごと刺せ」と言って果てた烈士である。この騒動は勤王派と佐幕派の壮絶な争いの始まりとなる。後に、寺田屋騒動で殉難した九名は、「薩摩九烈士」と呼ばれた。
「朝廷辺に 死ぬべきいのち ながらへて 帰る旅路の 憤ろしも」
【吉村寅太郎】(天保八年・1837~文久三年・1863)
吉村寅太郎は、土佐の庄屋であったが土佐勤王党に加盟し、「寺田屋事件」に遭遇し土佐に送還されて投獄された。後に、天誅組を組織して大和国から挙兵したが、孤立した天誅組は壊滅し寅太郎は奈良県で射殺された。
辞世「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」
【真木和泉守保臣】(文化十年・1813~元治元年・1864)
真木和泉は、「安政の大獄」で吉田松陰・橋本左内などの思想的支柱を失った尊皇攘夷派の精神的指導者となり、楠正成の崇拝者でもあり「今楠公」と呼ばれた人物である。寺田屋事件では幽閉され、長州藩の同志と共に「蛤御門の変(禁門の変)」を起こし天王山で自刀して果てた。
辞世「大山の 峯の岩根に うづみけり わが年月の 大和魂」
【野村望東尼】(文化三年・1806~慶應三年・1867)
野村望東尼は、「殉難前草」に登場する中では唯一の女性である。福岡藩士の娘に生まれ、幕末の女流歌人として有名で、勤王の志士たちの援助のために自宅を解放した勤王家である。彼女は福岡藩からの弾圧を受け島流しとなり、高杉晋作の手配で脱出して下関の白石正一郎に匿われた。
「うき雲の かかるもよしや もののふの 大和心の かずにいりなば」
【清川八郎正明】(天保元年・1830~文久三年・1863)
清川八郎こと清河八郎は、新撰組の前身である「浪士組」を創設したことで有名である。庄内藩の藩士として生まれ、北辰一刀流の千葉周作から直接指導を受け免許皆伝を得て昌平黌にも学んだ。江戸で文武両道の「清河塾」を創設して、当時としては両道を伝授する塾は稀であった。「桜田門外の変」で衝撃を受け尊皇攘夷思想を強くし、「急務三策」で巧く幕府に取入り「浪士組」を結成する。最後は幕府の刺客に斃され江戸の麻布で首を斬られた。首は山岡鐵舟の妻の山岡英子に保護され遺族に渡された。
【参考】:山岡鐵舟について
山岡鐵舟(天保七年・1836~明治二十一年・1888)は、江戸を戦火から救った「幕末の三舟」(勝海舟・高橋泥舟・山岡鐵舟)の一人として有名で、江戸無血開城を実現した立役者である。また、幕臣として生まれた彼は、神陰流や北辰一刀流に学び一刀正伝無刀流を開眼した開祖である。清河八郎と「浪士組」を結成し、尊皇攘夷の急先鋒となり紆余曲折したが、江戸無血開城以後は将軍慶喜に伴い静岡で暮らして清水次郎長との交遊は有名である。明治時代には明治天皇の侍従として仕え、維新の混乱に殉難した志士たちを弔うために「全生庵」を建立した。
所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
平成二十三年(2011年)十月作成