『殉難遺草』(じゅんなんいそう)

    


タイトル:殉難遺草(じゅんなんいそう)

編者:青雲閣兼文(西村兼文)

出版書写事項:明治二年(1869年)四月 官許
       平安書林 藤井文正堂梓

形態:一巻全一冊 和装中本(B6版)

浪華書肆:河内屋喜兵衛 塩屋弥七 河内屋勘助
尾州書肆:菱屋藤兵衛
皇都書肆:近江屋卯兵衛梓

目録番号:win-0060007



殉難遺草』の解説

 今回紹介する「殉難遺草」は、江戸幕末の京都西本願寺の侍臣で尊皇攘夷派であった青雲閣兼文こと西村兼文(天保三年・1832~明治二十九年・1896)が編纂した殉難志士の詩文集である。西村兼文については、「殉難前草」で紹介したので省略する。また、兼文は憂国の殉難志士の詩文を収集して「青雲閣兼文」の名で慶應年間から「殉難前草」「殉難後草」「殉難遺草」「殉難續草」を発刊している。

 「殉難遺草」は、青雲閣主人の自序の後に目録があり、梁川緯こと梁川星嚴の「老いの身の」から始まる辞世を冒頭に配して、若い命を日本国の将来のために捧げた五十八名の憂国の志士たちの辞世などが掲載されている。ここでは主な人物の略歴と辞世などを紹介することにした。

【梁川公圖】(寛政元年・1789~安政五年・1858)

 梁川公圖こと梁川星巖は、美濃国の大垣藩の郷士の子として生まれ、江戸で遊学の後、妻で女流詩人の紅蘭(文化元年・1804~明治十二年・1879)と共に諸国を旅して、文人墨客(備後の管茶山・広島の頼杏坪・豊後の廣瀬淡窓・美濃の村瀬藤城、江馬細香など)と交遊した江戸幕末の漢詩人である。勤王の志士たちからは「文の頼山陽、詩の梁川星巖」とも呼ばれ、精神的影響力が強かった憂国の志士でもあった。晩年は京都の鴨涯に「鴨折小隠」を営み、安政の大獄で刑死した梅田雲浜・橋本左内・頼三樹三郎・吉田松陰とも交流があったので捕縛予定であったが捕縛前にコレラで死亡した。しかし、妻の紅蘭は投獄されて気丈さを発揮して一切口を割らなかったことは有名であった。

 辞世「老いの身の 終るいのち をしからで 世にいさをしの なきぞかなし記」

【小林民部権太輔良典】(文化五年・1808~安政六年・1859)

 小林民部こと小林良典は、青蓮院宮・近衛忠熙・三條実萬などと交流し、将軍継嗣問題や水戸藩密勅降下に奔走した五摂家鷹司家の諸大夫で尊皇派である。公家側の重鎮で一橋派に属し、「安政の大獄」では遠島刑となり、肥後国人吉藩に預かり減刑となるが江戸獄中で病没した。

【堀織部正利賢】(文政元年・1818~万延元年・1860)

 堀織部こと堀利煕は、江戸幕末の旗本の家に生まれ、外国奉行として活躍した幕臣である。神奈川奉行も兼任して諸外国と交渉し、日米通商条約においては全権大使として署名した一人である。秘密交渉疑惑で老中などから糾弾されて切腹して果てた。

 「竹暗不通日 泉聲落如雨 春風自有故 桃李乱深塢」

【河野顕三通桓】(天保九年・1838~文久二年・1862)

 河野通桓こと河野顕三は、下野国の医師の家に生まれ、水戸の加倉井砂山が経営した「日新塾」で学んだ。江戸に出て外国奉行の堀織部宅に寄寓して勤王の志士たちと交流し、織部が切腹した後、老中の安藤信正を襲撃した「坂下門外の変」に参画して護衛に殺された。同年の元旦に詠んだ以下の七言絶句が辞世となった。

 辞世「生来両度決必死 二十五年又迎春 丹心一庁斃不己 再生又掃犬羊塵」

【大橋順蔵周道】(文化十三年・1816~文久二年・1862)

 大橋順蔵こと大橋訥庵は、江戸の豪商の大橋家の養子となり、「南洲手抄言志録」で紹介した佐藤一斎(文化十三年・1816~文久二年・1862)に学んだ儒学者である。日本橋に「思誠塾」を創設し下野国宇都宮藩の侍講ともなり尊皇攘夷論を説いた。老中の安藤信正を襲撃した「坂下門外の変」で投獄され出獄後に病死(毒殺とも謂われている)した。

 題櫻田斬奸
 「電發既看衆忽倒 淋離血滴雪如華 子房博真浪迂拙 徒雇他人推副車」

【松本謙三郎衡】(天保二年・1832~文久三年・1863)

 松本謙三郎こと松本奎堂は、三河国の刈谷藩藩士の家に生まれ、昌平坂学問所で学び舎長(塾頭)になった俊才であったが、脱藩して勤皇思想を醸成させて志士として活動した。「安政の大獄」は危うく切り抜け天誅組の挙兵においては、中山忠光・吉村虎太郎と共に三総裁として文章作成を担当した。天誅組解散の後は、失明した謙三郎は銃殺されたと謂う。

 辞世「君が為め みまかりにきと 世の人に 語りつきてよ みねのまつ風」

【宮部鼎蔵増實】(文政三年・1820~元治元年・1864)

 宮部鼎蔵こと宮部増實は、肥後国の熊本藩藩士の家に生まれ、山鹿流の軍学を学び吉田松陰(文政十三年・1830~安政六年・1859)と知り合い東北遊学に同行した。京都においては古高俊太郎宅に寄宿し、「池田屋事件」に遭遇し会合中に新撰組に襲撃され自刀して果てた。

 順徳天皇ノ山陵ニテ
 「陪臣執命奈無羞 天日喪光沈北陬 遺恨千年又何極 一刀不断賊人頭」


 追加として、尊皇思想を信奉した蒲生君平と高山彦九郎を紹介した。

【蒲生君平秀實】(明和五年・1768~文化十年・1813)

 蒲生秀實こと蒲生君平は、高山彦九郎(延享四年・1747~寛政五年・1793)や「海国兵談」で紹介した林子平(元文三年・1738~寛政五年・1793)と共に「寛政の三奇人」と呼ばれた儒学者で海防論家でもある。「奇人」とは「稀に見る優れた人」という意味で、奇人変人の意味ではない。下野国の宇都宮の豪農の家に生まれ、祖先が蒲生氏郷であると聞くや、学問で身を立て祖先に恥じない精進を決意した。「太平記」を読んで尊皇思想に目覚め、水戸学の藤田幽谷の影響を受け忠勤に励み、曲亭馬琴や本居宣長などとも交友した。特に、北辺防備の海防論を展開し、「山陵志」(天皇古墳の調査資料)を著し、現代の教科書に登場する「前方後円墳」の命名の親ともなった。

 遊會津有感
 「廟古悲風封落輝 自揚蕭索葉初飛 山川顧望萬封地 涙下關東一布衣」

【高山彦九郎正之】(延享四年・1747~寛政五年・1793)

 高山正之こと高山彦九郎は、前述の「寛政の三奇人」の一人で、上野国新田郡の郷士の家に生まれ、「太平記」を読んで勤皇思想の志を持った。十八歳の時に遺書を残して諸国を遊歴して、上杉鷹山・前野良沢・大槻玄沢・林子平・広瀬淡窓・藤田幽谷などとも交友した。後に、老中の松平定信に警戒されて捕縛され監視を受けることとなる。いわゆる幕末勤皇の志士たちの先駆けとなったわけである。また、江戸幕末から第二次大戦までは「修身」のお手本の人物とされた。なお、京都の三条大橋東詰に彦九郎の皇居望拝の銅像が現存しているが、初代明治期建立時には「法華経」と「伊勢神宮入魂柱」が埋納されたと伝わる。

 「薩摩人 いかにやいかに かる萱の 関もとざさぬ 御世と知らずや」



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)十一月作成