『嵯峨本伊勢物語』(さがぼんいせものがたり)

    


タイトル:『嵯峨本伊勢物語』(さがぼんいせものがたり)

著者:不明

出版書写事項:昭和四十九年(1974年)復刻発行

版心:慶長十四年刊 嵯峨本第三種

形態:上下二巻全二冊(A4版)

解題翻刻:片桐洋一

発行者:佐藤今朝夫

発行所:株式会社国書刊行会

目録番号:nihon-0030003



嵯峨本伊勢物語』の解説

 『伊勢物語』は、平安時代初期に成立した作者不明の歌物語である。「在五物語」「在五中将物語」「在五中将日記」とも呼ばれた経緯がある。「在五」とは、在原氏の第五番目の子の意味で在原業平を指す言葉である。

 全百二十五段で構成された『伊勢物語』には、在原業平の和歌を多く収録している。主人公を在原業平とする説も根強いが、王統の貴公子であった業平とは無関係の鄙人を主人公とする「筒井筒」なども含まれている。現在では伊勢国を舞台として、在原業平と想定される男が、伊勢斎宮と密通してしまう話に由来するという説が最も有力視されている。

 在原業平(天長二年・825~元慶四年・880)の父は平城天皇の第一皇子・阿保親王で平城天皇の孫に当たり、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で桓武天皇の曾孫でもある。また、紀有常女(惟喬親王の従姉に当たる)を妻としたので紀氏とも交流があった。業平は「鷹狩の名手」との評価が高い蔵人頭であったが、勅撰歌人としては『古今和歌集』に三十首、勅撰和歌集全体では八十七首も収録され、『日本三代実録』にも登場している。

 『伊勢物語』の主人公は、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御で後の皇太后である藤原高子(二条后)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王との禁忌の恋などが語られ、反骨精神旺盛な文武両道に優れた貴公子として描かれている。

 また、『伊勢物語』の現存伝本では、前半では「二条后との悲恋」「東国への東下り」「伊勢斎宮との密通」「惟喬親王との主従関係」を描く挿話が置かれ、後半には老人の翁が登場し物語る。そして、藤原氏との政争に敗れても、優美な生活を過ごした紀有常などの紀氏の生き様を美的に描いているのではないかとも考えられている。

 紀有常(弘仁六年・815~貞観十九年・877)は、仁明・文徳・清和天皇に仕え、『日本三代実録』にも登場する貴族である。地方官を歴任し雅楽頭にも叙任された清楚で「礼」に明るい武官であったと伝わっている。勅撰歌人として『古今和歌集』『新古今和歌集』に一首ずつ収録されている。また、『伊勢物語』の十六段には、長年連れ添った妻の紀有常女が尼となり、親しい友人と和歌のやりとりをした悲しみが物語られている。

 『伊勢物語』は、『源氏物語』などの物語文学や、和歌に大きな影響を与え、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』にも『伊勢物語』から採録されたのではないかと考えられる和歌が見られる。中世以降夥しい数の注釈書が書かれたが、人形浄瑠璃や歌舞伎の世界でも『伊勢物語』は題材となり、惟喬親王と惟仁親王の天皇の座を争う話を中心に、在原業平や紀有常など『伊勢物語』の登場人物を交えて活躍させている。また、能の世界では、在原業平が『伊勢物語』のあらすじを夢の中で語る謡曲「雲林院」の題材にもなっている。

 今回紹介する『嵯峨本伊勢物語』の「嵯峨本」とは、、京都嵯峨の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい・天文二十三年・1554~慶長十九年・1614)の長男で「洛下の三筆」の一人と呼ばれた角倉素庵(そあん・元亀二年・1571~寛永九年・1632)が本阿弥光悦(永禄元年・1558~寛永十四年・1637)や俵屋宗達(生没年不詳)らと協力して、江戸時代初期(慶長~元和)に木活字を使用して出版した書籍を呼んだものである。当時の京都には「富豪商人」「京都五山版を手がけた職人」「読者層」が存在していたことが「嵯峨本」を生んだ背景であると伝わっている。

 角倉了以(すみのくらりょうい・天文二十三年・1554~慶長十九年・1614)は、京都では「水運の父」と尊敬され、戦国時代から江戸時代初期に活躍した京都の豪商である。私財を投じて山城国の大堰川や高瀬川の水運を開き、急流で名高い富士川や天竜川も整備した。角倉家の本姓は吉田姓であり、数学書の『塵劫記』で有名な吉田光由(慶長三年・1598~寛文十二年・1673)とは同族である。

 角倉素庵は『篆書唐詩選』で紹介した石川丈山(いしかわじょうざん・天正十一年・1583~寛文十二年・1672)も師事した藤原惺窩(ふじわらせいか・永禄四年・1561~元和五年・1619)に儒学を学び、本阿弥光悦に書を学んだ。「嵯峨本」は『伊勢物語』『徒然草』『方丈記』等の古典文学を復刻印刷したが、謡曲本なども残されている。雲母用紙を使ったり、装幀意匠が凝らされた豪華本で、当時輸入された活版印刷術に影響を受けて、本阿弥光悦が書いた縦書きの数文字を木活字として作り、その組み合わせで製版していた。この制作手法は手間がかかり繰り返し版を重ねるには困難を要したので、「嵯峨本」以降の江戸時代の書籍印刷は木版印刷が主流となる。

 藤原惺窩は、冷泉為純の三男として下冷泉家の所領であった播磨国三木郡細川庄で生まれた。戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者で、門弟のなかでも特に林羅山・那波活所・松永尺五・堀杏庵の四人は「惺門四天王」と称され有名であった。

 本阿弥光悦は、「寛永の三筆」の一人と呼ばれた江戸時代初期の書家で陶芸家であり、光悦流の祖と仰がれた芸術家である。光悦は徳川家康から京都洛北の鷹峯の地を拝領し、芸術村である「光悦村」を建設したことでも有名であるが、本阿弥の眷属や職人たちや町衆などの法華宗徒の仲間を率いて鷹峯に移住した。俵屋宗達や尾形光琳と共に琳派の創始者としても、光悦は後世の日本文化に大きな影響を与えた。また、日蓮大聖人の御書『立正安国論』『如説修行抄』『法華題目抄』『始聞仏乗義』などを書写したものが現存していることは有名である。

 解題翻刻を担当した片桐洋一(昭和六年・1931~)は、大阪市に生れた日本古典文学の研究者で、大阪女子大学名誉教授である。『古今和歌集の研究』『伊勢物語の研究』などで有名な関西大学文学博士でもあった。なお、私こと樹冠人の所蔵している『嵯峨本伊勢物語』には「紫尾山文庫」の印影と、「田原南軒」の署名がある。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十六年(2014年)一月作成