『白鹿洞学規集註』(はくろくどうがっきしゅうちゅう)

    


タイトル:『白鹿洞學規集註』(はくろくどうがっきしゅうちゅう)

著者:山崎闇斎

出版書写事項:江戸期 無刊記

形態:一巻全一冊 和装大本(B5版)

序:慶安三年庚寅冬十二月九日戊午洛陽闇斎山崎嘉序

目録番号:win-0080003



白鹿洞學規集註』の解説

 『白鹿洞学規集註』(はくろくどうがっきしゅうちゅう)は、江戸時代初期に活躍した朱子学者としては南学派に属する山崎闇斎(やまざきあんさい・元和四年・1619~天和二年・1682)が南宋の朱子(1130年~1200年)の定めた学生心得である「白鹿洞書院掲示」を解説した書籍である。

 今回紹介する『白鹿洞学規集註』は、無刊記の書籍であるが、江戸期の慶安三年に山崎闇斎が序を著述し、350余年前に出版された貴重な書籍である。

 白鹿洞書院は、中国唐時代の貞元年間(785年~805年)に設けられた書院であったが、その後荒廃し、朱子によって修復された。また、「白鹿洞学規」とは、「白鹿洞書院掲示」の後世の呼称である。


「白鹿洞書院掲示」の本文及び践文は次の通りである。

 父子有親 君臣有義 夫婦有別 長幼有序 朋友有信
 右五教之目。堯舜使契司徒敬敷五教、即此是也。学者学此而已。而其所以学之之序亦有五焉。其別如左。
 博学之 審問之 謹思之 明弁之 篤行之
 右為学之序。
 学問思弁智四者、所以窮理也。若夫篤行之事、則自修身以至于処事接物、亦各有要。其別如左。
 言忠信行篤敬 懲忿窒慾遷善改過
 右修身之要。
 正其義不謀其利 明其道不計其功
 右処事之要。
 己所不欲勿施於人 行有不得反求諸己
 右接物之要。

 熹竊観古昔聖賢所以教人為学之意、莫非使之講明義理、以修其身、然後推以及人。非徒欲其務記覧為詞章、以釣声名取利禄而已也。今人之為学者、則既反是矣。然聖賢所以教人之法、具存於経。有志之士、固當熟読深思而問辮之。苟知其理之當然而責其身以必然、則夫規矩禁防之具、豈待他人設之、而後有所持循哉。近世於学有規、其待学者、為已浅矣。而其為法、又未必古人之意也。故今不復以施於此堂。而特取凡聖賢所以教人為学之大端、條列如右、而掲之眉間。諸君其相與講明遵守、而責之於身焉、則夫思慮云為之際、其所以戒謹而恐懼者、必有厳於彼者矣。其有不然、而或出於此言之所棄、則彼所謂規者、必将取之、固不得而略也。諸君其亦念之哉。


 朱子(1130年~1200年)の著述は江戸時代には数多く読まれていたが、特に今回紹介した『白鹿洞学規』は短文であることが幸いしてか、多くの人々に愛唱された。例えば、「史記十傳纂評」で紹介した岡山藩主池田光政によって設立された「閑谷学校」では、毎月一日の朝には、学規「白鹿洞書院掲示」の講釈が習芸斎で行われ、この講釈には在校生のほか、近隣の村に住む農民たちも出席したのである。また、大坂の「懐徳堂」では、第四代学主の中井竹山(なかいちくざん・享保十五年・1730~享和四年・1804)が、この「白鹿洞学規」の全文を巨板に刻んで講堂に掲示し、弟の中井履軒(なかいりけん・享保十七年・1732~文化十四年・1817)もこれを抄写して堂内に掲げた。

 「白鹿洞書院掲示」は、南康軍(現在の江西省)の知事に就任した朱子が、荒廃していた「白鹿洞書院」を修復再建した際に、書院に掲げたものである。本文はわずか175文字で、ほとんどが古典から引用され、これに260文字の短文が添えられた短い文章であるが、中国の明清時代には書院規則の模範とされ、例示したように日本では江戸時代の藩校などで掲げられて教育指針とされたのである。

 実は、江戸時代に初めて、この「掲示」に注目して顕彰した人物が山崎闇斎であったのである。彼は手の付けられない程のやんちゃのため十九歳で仏門に入れられ、二十五歳の時に儒教に転向して、京都において『闢異』を著して仏教を排撃し、儒学者の姿勢を表明した証が今回紹介する『白鹿洞学規集註』の編纂刊行だったのである。また、朱子学が官学と定まってからは「白鹿洞学規」に関する数多くの注釈書が刊行された。

 闇斎が三十三歳の時に書いた自序(慶安三年・1650年)の中で、『小学』『大学』の教えは、いずれも人倫を明らかにするためのもので、「此の規は五倫を教えと為し、而して之を学ぶの序は、実に大学と相い発す」と指摘した上で、次のように述べている。

 「この規はこのように明確で完備しており、『小学』や『大学』と並んで行われるべきである。しかし、朱先生の文集の中に隠れていて、知る者も少ない。私はかつてこれを取り出して、書斎に掲げ、思いを潜めて考究した。最近、李退渓の『自省録』を読んだら、このことを詳しく論じていた。その論を受けて、反復してみたら、このゆえん規の規たる所以が解った。そこで、先儒の説を集め、各条の下に註を付け、同志とこれについて講降した。ただ嘆かわしいことに、『小学』『大学』の書は様々な学派や人々が説き伝えているが、この書を明らかにした者はいない。これは時代がかけ離れてしまい、土地も遠く離れているからであろうか。しかし、李退渓の場合は朱子から数百年も後に朝鮮に生まれながら、白鹿洞書院に学んで直接教えを受けた者と何ら変わらないのだから、私も感奮興起すべきだろう。」

 自序にある通り、闇斎が「掲示」を顕彰するに当って、朝鮮の朱子学者である李退渓の名前を挙げていることは注目に値する。江戸儒学における本格的な「掲示」研究は闇斎から始まったが、実は、その出発点に朝鮮の李退渓との密接な関係があったのである。闇斎が「掲示」の集註を作るに当って、「学規集註」と表現したのは、この李退渓が『聖学十図』(1568年成立)などで「白鹿洞規」と表現したことに由来している。『白鹿洞学規集註』が成立した以後は、崎門学派の人々はこの「掲示」を尊重し、様々な注釈書を著している。闇斎の高弟である浅見綱斎などは、『白鹿洞学規集註』を詳細に解説した『白鹿洞書院掲示集註講義』を著述した。

 李滉こと李退渓(1501年~1570)は、李氏朝鮮の儒学者で「東方の小朱子」とも呼ばれ、李珥(りじ・1536年~1584)と並んで、朝鮮朱子学における二大儒と称された。退渓は慶尚道安東の出身で、科挙に合格した後に中央や地方の官僚として活躍し、任官先で朝鮮半島初の「賜額書院」や「紹修書院」などを建設して書院文化を築いた。嶺南学派と呼ばれた退渓の思想は、陽明学を退け、朱子学を尊重する「格物致知」の概念や「理気二元論」に基づいた主理説に特色がある。この立場から朱熹(朱子)の学説を整理し、『聖図十図』や『自省録』などの著作の大部分が江戸時代に日本で復刻され、江戸時代初期の儒学者たちの必読書となった。

 江戸時代初期に闇斎と同時代を生きて日本的儒教学を模索した儒学者である山鹿素行(やまがそこう・元和八年・1622~貞享二年・1685)や熊沢蕃山(まざわばんざん・元和五年・1619~元禄四年・1691)や貝原益軒(かいばらえきけん・寛永七年・1630~正徳四年・1714)などは、西洋中世以後のルネサンス的人間を想起させる逸材であった。そして、彼らには以下のような共通点があった。

 ①応仁の乱以降やっと平和を享受し、自我を発見する道を与えられ、新時代の人間性の追究を行った。
 ②彼らは、戦国時代の戦災者や浪人生活者で、生活に何ら制約を受けない自由な民衆であった。
 ③古典を究め、古典的教養の根拠を持って徳業を進め、人格形成の基礎を構築した。
 ④「人間」の発見から「自然」の発見を推進し、自然科学研究の基礎を提示した。
 ⑤彼らが経営した塾は官学ではない私学であり、彼らは民間の儒学者先生であった。

 山崎闇斎も彼ら逸材たちと似た環境で育った。十九歳で仏門に入れられ、土佐南学派を創始した儒学者の谷時中(たにじちゅう・慶長三年・1598~慶安二年・1650)に朱子学を学び、時中の弟子で土佐藩家老の野中兼山(のなかけんざん・元和元年・1615~寛文三年・1664)や小倉三省(おぐらさんせい・慶長九年・1604~承応三年・1654)とも交流して、朱子学への傾倒を深め、還俗して儒学者となった。また、吉川神道の創始者である吉川惟足に神道を学んで、神道研究にも本格的に取り組むようになり、従来の神道と儒教を統合した「垂加神道」を創始した。

 「中庸発揮」で紹介した京師堀川の伊藤仁斎(いとうじんさい・寛永四年・1627~宝永二年・1705)の開いた「古義堂」の近所に、「闇斎塾」を開塾し、門人には、三傑の浅見絅斎・佐藤直方・三宅尚斎、そして、植田艮背・遊佐木斎・谷秦山・正親町公通・出雲路信直・土御門泰福などが在籍しており、闇齋学の系統は「崎門学派」または「闇斎学派」と呼ばれた。

 吉川神道(よしかわしんとう)とは、江戸時代初期の吉川惟足(よしかわこれたり・元和二年・1616~元禄七年・1695)によって提唱された神道の学説で、吉川家は寺社奉行の神道方に任命され大きな影響力があった。惟足は師である萩原兼従(はぎわらかねより・天正十六年・1588~万治三年・1660)から吉田神道を受け継ぎながら、さらに発展させ、道徳的な側面の強い「吉川神道」を確立した。吉川神道は、官学である朱子学の思想を取り入れて、神儒一致の思想を推し進めた。特に、皇室を中心とする君臣関係の重視を訴える点などは、江戸時代後期の「尊王思想」に影響を与えた。神道を祭祀や行法を中心とした「行法神道」と天下を治める理論としての「理学神道」に分類し、「理学神道」が神道の本旨であると主張した。そのうえで神道を宇宙の根本原理として、神々が全ての人間の心の中に内在していると説く「神人合一説」を提唱した。

 実は、日本においての朱子学には仏教(禅学)が混入し、江戸期の儒教は「儒教と仏教と神道」が混在一体化した日本独特に熟成された儒教学であった。神儒一致思想は儒家神道とも呼ばれているが、南北朝時代の北畠親房らにより儒教と神道との融合が模索されていた。室町時代には『河海抄・花鳥餘情・紫女七論』で紹介した一条兼良らによって一旦は形成され、江戸時代になり藤原惺窩が一層進め「儒教と神道は本来同一である」と主張し、林羅山や中江藤樹や熊沢蕃山や山鹿素行や貝原益軒らに影響を与えた。官学の基礎を構築した林羅山も「理当心地神道」と名付けて儒教と神道を融合して神儒一致思想を積極的に推進した。

 闇斎は、人間の心神は天神と同源であり同一であるとの思想から、自らの心神を自宅の祠に生祀した。社名は闇斎の霊社号と同じ「垂加霊社」である。後に、この霊社は京都の下御霊神社の境内に遷座されて、猿田彦神社に合祀され現存している。ちなみに、諱の「嘉」の字を二文字「垂」と「加」に分解し「垂加霊社(すいか・しでます)」という霊社号を生前に定め、神道の吉川神道をさらに発展させた「垂加神道」は、君臣の関係を重視した思想でもあり、賓師に迎えられた会津藩主の保科正之の下では、藩政への助言を行い、領内の寺院や神社の整理を断行して神仏習合を排除した。そして、江戸幕末には「垂加神道」に影響を受けた水戸学が「尊王思想」を普及させ明治維新を達成させたのである。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)六月作成