『勝海舟』(かつかいしゅう)

    


タイトル:勝海舟(かつかいしゅう) 第一巻

著作者:子母澤寛

出版書写事項:昭和二十一年(1946年)三月十九日 初版発行

形態:一巻全一冊 (B6版)

発行者:戸田城聖

印刷者:株式会社秀英社

発行所:日正書房

目録番号:win-0030006



勝海舟』の解説

 著者の子母澤寛(明治二十五年・1892~昭和四十三年・1968)は、昭和期に活躍した北海道厚田村出身の歴史小説家である。昭和三年(1928年)の『新選組始末記』を皮切りに、大量の作品を創出した。中でも戸田城聖先生が経営していた「大道書房」との関わりは有名である。

 子母澤寛の『大道』を冠した「大道書房」で、昭和十五年(1940年)に出版された書籍は、『意地ッ張地蔵 』『飛騨の兄弟』『はればれ街道』『三味線堀』、昭和十六年(1941年)に出版された書籍は、『飛ぶ野火』『開墾』『奔流』、そして、『勝安房守』全三巻は昭和十七年(1942年)に出版された。

 池田大作先生曰く、「戸田先生が大道書房と名付けられた思いも、わかるような気がする。誠実の道を行け。人目を気にして生きるような、なさけない人間にはなるな。堂々と人間としての大道を歩め。これは戸田先生が、常に教えられたことである。」と。

 今回紹介する書籍は、昭和十七年(1942年)に出版された『勝安房守』を改題して『勝海舟』とし、戦後の昭和二十一年(1946年)に、戸田城聖先生が経営していた「日正書房」から出版されたものである。残念なことに、私の手許には第一巻しかない。なお、「日本正学館」から出版されたものには『男の肚』などがある。

 勝海舟 (文政六年・1823~明治三十二年・1899)の事業については、「氷川清話」などで紹介したが、もう一度詳しく整理しておこう。

 西郷隆盛との会談による江戸無血開城が有名であるが、剣をとっては免許皆伝の達人で、「幕末の三舟」(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)と呼ばれる如く、漢学の素養も深く鋭い視点からの漢詩や詩歌を創作した。陽明学にも通達し禅の修行もしている。なお、「陽明学」は儒学を装っているが、内実は「禅学」であるとの考えもある。

 漢学の勉強については、「氷川清話」で閉門中の独学について述懐している。

 「とうとう二十一史も読み通したよ。しかしほんの独学で、始終『康熙字典』と首引きをしたのだから、読みあやまってるかもしれないよ。音などは偏や旁を見て、よいかげんにやっつけるのだからのう。」と、この件(くだり)を読んだ時、肩の力が抜けた。まさに、中国正史の読み方を教わった思い出であった。

 蘭学修行中に蘭和辞書『ドゥーフ・ハルマ』(当時、大阪「適々斎塾」にも常備されたが、大変貴重な書籍であった。)を一年かけて二部筆写して一部を売って生活費に充てたことは有名な話である。この話は、海舟が二十五歳のときのことであるが、二十二・三歳の時、新しく舶来した和蘭の兵書を筆写した逸話は、山路愛山の「勝海舟」で詳しく紹介したので省略する。

 江戸赤坂田町に私塾「氷解塾」を開き、西洋兵学を広めた。この塾は貧乏塾ではあったが、この時に、小笠原佐渡守から注文を受けた鉄砲五百挺を造り無事納品したり、唐津藩その他の諸藩からの依頼で野戦砲を造りこれも無事納品している。これらのことで海舟の名が天下に轟いたのである。そして、門下生に西洋式の砲術を伝授している。まさに、この塾は「実戦塾」だったのである。

 また、海舟は、長崎海軍伝習所に五年間在籍した。蘭学を始め英語にも堪能であり、航海術にも通達していたから、咸臨丸による日本初の単独航海の船長の任も全うすることができたのであろう。帰国後、神戸海軍操練所を設立している。

 特に、神戸海軍操練所の塾頭であった坂本竜馬の師匠であることでも有名であり、西郷隆盛を始め明治期に活躍する榎本武揚・谷干城・田中正造など交友関係は広範に亘っている。なお、勝海舟は日清戦争反対運動を展開するなど、晩年に至るまで明治新政府に対しての監視を緩めなかった。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十二年(2010年)十一月作成