『西郷南洲遺訓』(さいごうなんしゅういくん)

    


タイトル:西郷南洲遺訓(さいごうなんしゅういくん)

著者:西郷南洲(西郷隆盛)

編者:山田済齋(済斎)

出版書写事項:昭和十四年(1939年)二月二日 発行

形態:一巻全一冊 文庫版

発行所:岩波書店

目録番号:win-0040005



西郷南洲遺訓』の解説

 西郷南洲こと西郷隆盛(文政十年・1827~明治十年・1877)については、「西郷南洲先生遺訓」で説明したので省略するが、私こと樹冠人が初めて「西郷南洲遺訓」と遭遇したのも池田大作先生の「若き日の読書」(第三文明社)の「天下の大事を担うもの 山田済齋『西郷南洲遺訓』」を読んだ二十一歳のときのことであった。

 岩波文庫の「西郷南洲遺訓」は、「遺訓」「手抄言志録」「遺教」「遺篇」「遺牘」「逸話」「書後の辭」の七章で構成されている。

 山田準こと山田済齋(せいさい・慶應三年・1867~昭和二十七年・1952)は、二松學舎や大東文化学院に関係した教育者である。済齋は、山田方谷の門弟で二松學舎を創設した三島中洲(文政十三年・1831~大正八年・1919)に学んだ。昌平黌の佐藤一斎や備中松山藩の山田方谷の流れを汲む漢学者で陽明学者である。ちなみに、済齋は山田方谷の義孫で、陽明学に関する夥しい数の著作を遺している。

 二松學舎は多才な人材を輩出したことで有名であるが、済齋は夏目漱石(慶應三年・1867~大正五年・1916)と同年の生まれで、二人とも二松學舎で学び、共に第五高等学校で教鞭を振るった仲である。なお、現在では、漢学を専修できる大学は二松學舎大学のみである。

 さて、今回紹介する文庫版の「西郷南洲遺訓」には、南洲翁の「遺訓」の後に秋月種樹(秋月古香・天保四年・1833~明治三十三年・1904)が評を付けて撰した「南洲手抄言志録」が掲載されている。「書後の辭」には「佐藤一斎言志録手抄は、抄末に秋月古香の序、及び一斎・古香二老の略伝を附載したれば、其の由来自ら明らかなるべし。」とある。また、「遺教」の章をまとめるに当たり、「孤島の南洲(絶島の南洲か?)」と「南洲翁謫所逸話」を定本にしたことも記載している。

 「言志録」は佐藤一斎(安永元年・1772~安政六年・1859)が著した語録で、「言志後録」「言志晩録」「言志耋録」と併せて「言志四録」と呼ばれ、全1133条で構成されている。なお、「耋」は「てつ」と読み「年寄り」の意味である。「手抄言志録」は西郷南洲がこの「言志四録」から101箇条を選び出して座右の書としたものである。

 そして、「手抄言志録」には秋月の序と佐藤一斎・秋月種樹の略伝が添付されている。「南洲手抄言志録」の初出版は明治二十一年(1888年)五月十七日で、東京博聞社から刊行されたものと、同年月日付けで出版された今回紹介する東京の研學會蔵版が存在する。今回紹介する書籍は、「秋月種樹偶評 南洲手抄言志録」と題し、山縣有朋の題字と勝海舟の南洲詠詩を巻頭に冠している。また、秋月自ら叙言を担当し、書は吉田晩稼が担当している。なお、この書籍は、現存数が少ない貴重な書籍でもある。

 池田大作先生の「若き日の読書」の章末には、次の二点が指摘されている。

 「しかし私は、かつて西郷の人間性には魅かれたが、果たして彼に百年の遠謀深慮があったか-----いまでは疑問に思っている。彼には、土着性に根ざす人情の豊かさはあっても、新しい未来の光源となりうる理念の輝きは見られないからである。」と、

 また、「私の恩師は、西郷が未来への使命に生きゆく多くの青年を死地に追いやったことの非を、厳しく批判されたことがある。真の指導者というものは、次代の有為な青年たちを決して犠牲にするものではないとの心情が、恩師の指摘には溢れているようで、私の脳裡からは瞬時もはなれないのだ。」と、戸田城聖先生の西郷評が掲載されている。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)一月作成