『標註徒然草讀本』(ひょうちゅうつれづれぐさどくほん)

    


タイトル:『標註徒然草讀本』(ひょうちゅうつれづれぐさどくほん)

著者:兼好法師(吉田兼好)

標註者:小中村義象

出版書写事項:明治廿三年九月三十日(1890年) 出版

形態:上下巻全二冊 和装中本(A5版)

印刷兼発行者:弦巻七十郎

発賣所:弦巻支店 弦巻出張所

目録番号:nihon-0020008



標註徒然草讀本』の解説

 「徒然草」(つれづれぐさ)は、鎌倉幕府・室町幕府時代を生きた兼好法師(吉田兼好・弘安六年・1283~正平七年・1352?)が著述した随筆といわれているが、現在まで兼好が著述した確証は一つも残っていない。にもかかわらず、学校教科書には清少納言の「枕草子」や鴨長明の「方丈記」と共に日本三大随筆の一つと表記され、受験問題では頻出書籍の一つでもある。

 吉田兼好こと兼好法師の父兼顕は吉田神社の神職であった。兼好は堀川具守の家司となり後二条天皇が即位すると六位蔵人に任じられ北面武士として仕えた。しかし、従五位下左兵衛佐にまで昇進したが突如仏門に入り兼好法師と呼ばれるようになる。二条為世(建長二年・1250~建武五年・1338)に和歌を学び、為世門下の四天王の一人でもあり、兼好の和歌は「続千載集」「続後拾遺集」などに十八首が収められている。

 兼好法師は京都の御室仁和寺に近い雙岡(双が丘:ならびがおか)の位置にも草庵(法金剛院の北側に址碑が現存)を構えたので、「徒然草」には仁和寺に関する説話が多く、双が丘に現存する法金剛院(別名:花の寺)の過去帳にはその名が記載されている。

 江戸時代の幕臣で有識故実の研究家である伊勢貞丈(いせさだたけ・享保二年・1718~天明四年・1784)の説によれば、兼好法師が世を去って遺品を収集するために、親交のあった室町幕府九州探題の今川貞世(了俊)が命松丸に命じて吉田の感神院(兼好は現在の京都大学本校附近・吉田神社附近に住居していた)に遣わして「多く壁に貼られた草紙を集め」二冊の冊子に纏めた。これを「徒然草」と呼んだとある。

 そして、雙岡の草庵に残っていた書籍は、「古筆の法華経」「自筆の老子経」「源氏物語須磨明石の二巻」「神代巻」などであったらしい。平安時代を過ぎ鎌倉時代・室町時代でも文化人の座右の書は「法華経」であったことがわかる。兼好の遺言で伊賀国の田井の庄に墓が営まれ、権僧都の位が贈られたと伝わっている。

 「徒然草」は、序段の後243段で構成され、和漢混淆文とかな文が混在した書籍に仕上げられている。序段に「徒然なるまゝに 日ぐらし硯に向かひて 心にうつり行くよしなし事を そこはかとなくかきつくれば あやしうこそ物狂ほしけれ。」とあることから「徒然草」と呼ばれたのであるが、まさしく、時間的にも内容的にも順不同の随想が展開されている。

 今回紹介する「標註徒然草読本」の標註者の小中村義象(こなかむらよしたか・文久元年・1861~大正十二年・1923)は、肥後国(現在の熊本県)で生まれ江戸明治大正を生きた国文学者である。国学者の小中村清矩(こなかむらよしたか・文久元年・1861~大正十二年・1923)の養子として小中村を名乗るが後に池辺義象の本姓に復姓した。大日本帝国憲法制定の立役者である同郷人の井上毅(いのうえこわし・天保十四年・1844~明治二十八年・1895)の典籍研究の助手を務め、「古事記」「六国史」「万葉集」「類聚国史」「延喜式」「大日本史」「日本外史」などを研究した。

 養父の小中村清矩(こなかむらきよのり・文政四年・1822~明治二十八年・1895)は、江戸麹町で生れた国学者で典籍家でもあった。小中村家は石清水八幡宮の神職家であったが江戸で商売をするようになり、清矩は家業を譲り学識においては宣長に次ぐといわれた本居内遠(寛政四年・1792~安政二年・1855)に入門した。その後、太政官制度を研究して明治政府の要職を歴任し貴族院議員も務めた明治時代を生きた逸物である。

 「徒然草」の構成は清少納言の「枕草子」を模範として、紫式部の「源氏物語」の詞使いを多用した。儒教・道教・仏教を学んだ兼好法師であるが、「徒然草」は老子・仏法を基底にして「無常」「もののあはれ」を強く意識した作風に仕上げられ、自然や物事の推移を「つれづれなるまま」に著述したのである。

 「徒然草」には、膨大な人物が登場する。それも通称が多用されているので、それを知らないと「徒然草」は読むことが出来ない。ここでは「徒然草」を読む場合に、知っておくべき参考となる事柄を徒然なるままに記載することにした。

第一段 「竹の園生」⇒ 漢の文帝の故事から皇族を「竹園」と呼ぶようになる。
第二段 「増賀聖」⇒ 参議橘恒平の子で、多武峯に住す。
第五段 「顕基」⇒ 源俊賢大納言の子で、後一条天皇の近習なり。
第六段 「前中書王」⇒ 醍醐天皇の皇子で、二品中務卿、兼明親王なり。
  「九条太政大臣」⇒ 権大納言宗通の子で、藤原伊通なり。
  「花園左大臣」⇒ 後三条天皇の孫で、輔仁親王の子、左大臣有仁なり。
  「染殿大臣」⇒ 太政大臣藤原良房なり。
第七段 「あだし野・鳥部野」⇒ ともに山城国にある埋葬地のこと。
第八段 「たきもの」⇒ 薫物のことで、衣装や髪に香を焚き込めること。
  「久米の仙人」⇒ 奈良の久米寺の開祖で、鎌倉時代に著された日本初の仏教通史である「元亨釈書」に詳しい。
第九段 「六塵」⇒ 仏説の「色・声・香・味・触・法」の六境を指し、心を汚し煩悩を起こさせるもの。
第十段 「後徳大寺」⇒ 後鳥羽院のときの徳大寺実定(藤原北家)のことで、公能の長男で官位は正二位左大臣なり。
第十一段 「栗栖野」⇒ 山城国醍醐の辺り、現在の京都市伏見区「小栗栖」の周辺である。
第十四段 梁塵秘抄」⇒ 後白河法皇が自ら編纂に関った今様歌集で、「徒然草」の第十四段で紹介されたことで有名になった。「昔の人は、ただいかに言ひすてたることぐさも、皆いみじく聞ゆるにや」と綴った。これは、実際に今様を聞いたのではなく「梁塵秘抄」を読んだ感想である。
第十九段 「灌佛」⇒ 「くわんぶつ」とは、四月八日の釈尊の誕生日を指す言葉で、佛生会が行われた。
第廿一段 「嵆康」⇒ 「けいこう」は、中国三国時代の魏国の文人で竹林七賢の一人である。
第廿五段 「京極殿法成寺」⇒ 関白藤原道長は剃髪前は京極殿に住み、入道後は法成寺(無量寿院)に住した。東北院と呼ばれた法成寺は、平等院の模範となった寺院である。
第卅三段 「玄輝門院」⇒ 伏見院の母后、洞院左大臣実雄(さねお)公の女なり。
  「閑院殿」⇒ 藤原冬嗣大臣の家。冬嗣は閑院大臣と号した。
第四十一段 「賀茂のくらべ馬」⇒ 賀茂祭の競馬のことで、現在も上賀茂神社では五月五日に行われている。
第五十二段 「仁和寺」⇒ 宇多天皇の御所で隠居場所である。以後、皇室の隠居場所となり「御室(おむろ)」と呼ばれた。
第六十六段 「岡本関白」⇒ 近衛家平は関白に就任するが二年余りで辞任して出家した。「岡本関白日記」が現存する。
第六十七段 「今出川院」⇒ 亀山院の后、常盤井相國實氏の孫、西園寺公相卿の女、中宮嬉子なり。
  「近衛」⇒ 近衛局、大納言伊平の女、今出川院に仕えた。
第六十九段 「書写上人」⇒ 平安時代中期の天台僧、橘善根の子、播磨国書写山に入山した法華経持経者性空なり。
第八十三段 「竹林院入道」⇒ 左大臣西園寺公衡なり。大覚寺統・持明院統問題では権力を見せ付けた。
  「洞院左大臣」⇒ 洞院家の祖である左大臣実雄の孫、洞院実泰なり。勅撰入集は五十三首におよぶ。
第八十六段 「惟継中納言」⇒ 平氏西洞院の嫡流、治部卿高兼の子、文章博士なり。
第八十八段 「小野道風」⇒ 平安時代の延喜・天暦の貴族、小野篁の孫なり。藤原佐理・藤原行成と共に日本三跡の一人で、空海の筆を批判したことでも有名。
  「四條大納言」⇒ 関白頼忠の長男藤原公任のこと、後一条院に仕えた。
第九十四段 「常盤井相国」⇒ 鎌倉時代の文永の公卿、西園寺實氏のこと。鎌倉幕府と親しかった公家として知られている。
第九十九段 「堀川相国」⇒ 兼好が仕えた堀川具守の父で久我太政大臣基具のこと。
第百段 「久我相国」⇒ 久我太政大臣基具の大叔父で源通光のこと。
第百二段 「尹大納言光忠入道」⇒ 弾正尹で大納言の源光忠のこと。弾正台長官の任務を司ったが仏門に入った。
  「洞院左大臣」⇒ 南北朝時代の洞院実賢なり。有識故実に明るく、たびたび辞意を表明したが認められず太政大臣に就任した。
第百七段 「浄土寺前関白」⇒ 藤氏長者(とうしのちょうじゃ・藤原氏一族の氏長者)となった九条師教なり。後二条天皇より関白宣下、花園天皇践祚において摂政に就任、「大才人也」と評された。
  「安喜門院」⇒ 後堀川院の女御で三条有子(ゆうし)のこと。太政大臣三条公房の娘で天皇との間に子はいなかった。
  「山階左大臣」⇒ 西園寺公経の子で洞院家の祖である左大臣実雄のこと。娘が亀山天皇・後深草天皇・伏見天皇の妃となり、いずれも皇子は後宇多天皇・伏見天皇・花園天皇となり外祖父として権勢を誇った。
第百十四段 「太秦殿」⇒ 坊門内大臣信清なり。修理大臣藤原信隆の子で、三条坊門に邸宅があり、後に権大納言に昇進した。
第百三十二段 「元良親王」⇒ 陽成天皇の第二皇子。紀貫之と同時代の親王で、百人一首に登場していることは有名。後撰和歌集には二十首も入選している。
第百三十五段 「資季大納言入道」⇒ 藤原資家の長男で二条資季のこと。法名を了心と名乗った。
  「具氏宰相」⇒ 源具氏のことで、宰相とは参議の唐名である。
第百三十八段 「周防内侍」⇒ 周防守平継仲の娘の平仲子、白河院に仕えた内侍で、平安時代後期の女流歌人。
  「枇杷皇太后宮」⇒ 御堂関白藤原道長の次女の藤原妍子、三条天皇の中宮で、皇子を産むことなく枇杷殿に住んだ。
第百三十九段 「京極入道中納言」⇒ 藤原定家のことで、鎌倉時代初期の激動期を生きた。御子左家の歌道を確立し、国宝の「明月記」は有名である。
第百四十段 「明雲座主」⇒ 平安時代末期の天台僧で平清盛の戒師でもある。久我太政大臣雅実の孫で、久我顕通の長男なり。
第百五十二段 「資朝」⇒ 日野権中納言資朝のことで、後醍醐天皇の側近公家である。
第百六十段 「二品禅門」⇒ 藤原北家の藤原行成を祖とする世尊寺行忠のことで、世尊寺とは行成が隠棲した邸宅に世尊寺を建立したことから始まる。
  「清閑寺僧正」⇒ 鎌倉時代後期の道我僧正のことで、清閑寺はこの頃天台宗から真言宗に転向した。
第百六十三段 「吉平」⇒ 安倍清明の長男で晴明の後継者、平安時代の陰陽師の安倍吉平のこと。藤原道長や藤原実資に重用された。
第百六十九段 「建礼門院」⇒ 平清盛の娘で平徳子のことで、高倉天皇の中宮、安徳天皇の国母である。
  「右京太夫」⇒ 建礼門院徳子の右京太夫として仕えた。父は世尊寺伊行で本名を伊子との説が有力である。
第百七十三段 「清行」⇒ 淡路守三善氏吉の三男で、漢学者の三善清行のこと。菅原道真・紀長谷雄との対立は有名である。
第百七十七段 「鎌倉中書王」⇒ 後嵯峨天皇の第一皇子の宗尊親王のこと。宗尊親王は皇族初めての征夷大将軍で鎌倉幕府六代将軍である。なお、中書とは中務の唐名である。
  「吉田中納言」⇒ 後醍醐天皇の側近として仕えた萬里小路藤房のことで、鎌倉幕府倒幕計画に参画した。江戸時代末期には、楠木正成・平重盛と共に「日本三忠臣」として高く評価された。
第百八十一段 「讃岐典侍」⇒ 堀川院の官女なり。
第百九十五段 「久我縄手」⇒ 山城国鳥羽の西桂川の辺りなり。
第百九十六段 「土御門相国」⇒ 二条兼基の後に就任した太政大臣土御門定実のこと。
第二百六段 「徳大寺右大臣」⇒ 徳大寺実基の長男で、徳大寺公孝のこと。この段では公孝が検非違使の別当の時を例に出し、利発の事を語っている。
第二百廿二段 「東二條院」⇒ 後深草院の后なり。
第二百廿五段 「磯の禅師」⇒ 源義経の妾の静御前の母のイソのことで、「鳥羽院の時代に藤原通憲入道が曲を選んで、磯禅師に白い水干に鞘巻をさし、烏帽子の男装で舞わせたのが白拍子の始まり」とこの段にある。そして、静御前に白拍子を伝えたとある。
第二百卅一段 「園別当入道」⇒ 参議右衛門督基氏のことで、藤原北家中御門流九家の一つである園家の祖である。持明院庶流の持明院基家の三男で琵琶を得意とする家系である。
第二百卅八段 「佐理行成」⇒ 「佐理」は藤原佐理、「行成」は藤原行成で共に「三蹟」と呼ばれた能書家である。
※第二百四十三段は、兼好自身の幼少の時を語り、仏の道の話で締め括っている。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十五年(2013年)十月作成