『倭漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)

    


タイトル:倭漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)

出版書写事項:昭和四十年(1965年)発行

形態:三巻全三冊 (コロタイプ変形版)

編集兼発行者:廣瀬保吉

印刷所:横山光藝社

発行所:清雅堂

目録番号:nihon-0010008



倭漢朗詠集』の解説

 「倭漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)」は、藤原公任(ふじわらのきんとう・康保三年・966~長久二年・1041)が撰者となり編纂した歌集で、公任の趣向性を窺うことができる歌集でもある。平安時代中期の寛仁二年(1018年)頃に成立したと伝承された「倭漢朗詠集」は、上巻・下巻の巻末の内題には「倭漢抄」とあり、通常は「倭漢抄」と呼ばれていたようである。

 藤原道長(ふじわらのみちなが・康保三年・966~万寿四年・1028)の娘で威子が入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂されたが、後に公任の娘と藤原教通(ふじわらののりみち・長徳二年・996~承保二年・1075)の結婚祝の引き出物として贈られた。「高野切」で紹介した能筆家の藤原行成(ふじわらのゆきなり・天禄三年・972~万寿四年・1028)が清書し、痛みを解消した折本で、文字の面を内側に入れ、折り目の外側を糊付けした書籍である粘葉装本(でっちょうそうほん)に仕立てられ、硯箱に入れて贈ったと伝承されている。

 藤原公任は、平安時代中期の公卿で優秀な歌人であった。藤原北家小野宮流の関白太政大臣である藤原頼忠(ふじわらのよりただ・延長二年・924~永祚元年・989)の長男で、官位は正二位・権大納言、四条大納言と号した。祖父・藤原実頼、父・藤原頼忠ともに関白太政大臣を務め、母(醍醐天皇の孫の厳子女王)・妻(村上天皇の孫)ともに二世の女王である。また、従兄弟には具平親王(ともひらしんのう・康保元年・964~寛弘六年・1009)・右大臣藤原実資(ふじわらのさねすけ・天徳元年・957~永承元年・1046)・書家の藤原佐理(ふじわらのすけまさ・天慶七年・944~長徳四年・998)などがいた。

 公任は、政治面・文芸面でも名門の出であるが、政治的には藤原北家の嫡流は皇室の外戚の座を失い小野宮流から九条流に移っていたことから、官位は正二位権大納言に留まった。しかし、九条流の藤原道長と連繋して、優れた学才により一条天皇の治世を支え、藤原斉信(ふじわらのただのぶ・康保四年・967~長元八年・1035)・藤原行成(ふじわらのゆきなり・天禄三年・972~万寿四年・1028)・源俊賢(みなもとのとしかた・天徳三年・959~万寿四年・1027)と共に「一条朝の四納言」と称されたことも有名である。

 また、公任の逸話には、本文以外で「源氏物語」を紹介した初出の記録であると伝承されている逸話がある。公任は土御門殿で催された敦成親王(後一条天皇)の誕生祝宴に参加していた。その時、公任が「源氏物語湖月抄」で紹介した紫式部(むらさきしきぶ・生没年不詳)に対して、「この辺りに若紫は居られませんか?」と声をかけた。紫式部は「光源氏に似た人が居ないのに、どうして紫の上が居るのかしら」と思いその言葉を聞き流した。と、「紫式部日記」に掲載されている。

 今回紹介する「倭漢朗詠集」の複製本を制作したのは現在も東京の神田須田町に存在する「清雅堂」である。この書籍を読むと、藤原行成の凄さが手に取るようにわかる。行成が清書した粘葉装は、とにかく美しく、料紙が凝ったものであった。紅色・藍色・黄色・茶色の薄めの唐紙に、雲母引きの唐華文をさらに刷り込んである。行成の手は変幻自在で、漢詩については行書・楷書・草書を混在させ、倭歌は行成が得意の草仮名を織り交ぜて、まさしく、巧みの技を垣間見ることができる書籍である。

 藤原行成(ふじわらのゆきなり・天禄三年・972~万寿四年・1028)は、藤原北家の右少将藤原義孝の長男で、正二位権大納言として前述の「一条朝の四納言」の一人として称された。また、世尊寺家の祖であり書道世尊寺流の祖である。行成は小野道風・藤原佐理と共に「平安時代の三蹟」の一人で、現在では行成の書は国宝として現存しているものが多いが、書道家からは「権蹟」(ごんせき)と称され崇拝されている。

 国風文化の流れを受けて編纂された「倭漢抄」は、上下二巻で構成されている。内容は倭歌二百十六首と漢詩五百八十八詩(倭人作も含む)の合計八百四題が収録されている。倭歌の最多掲載者は「古今和歌集講義」で紹介した紀貫之(きのつらゆき・貞観八年・866~天慶八年・945)の二十六首である。また、漢詩については、「史記」「漢書」「後漢書」「文選」「遊仙窟」「止観」の書籍から収録し、最多掲載者は白楽天こと白居易(はくきょい・772年~846年)の百三十五詩である。

 「古今和歌集」の構成を模範にして、上巻に春夏秋冬の四季の歌、下巻に雑歌を収録している。ちなみに、下巻の「祝」部には、日本国歌の「君が代」の原詩が掲載されている。後世には、漢字と仮名文字の併用で書かれていることから、室町時代から発生した「寺子屋」で読み書きの教科書として多用された。

 複製本を制作した清雅堂は、法帖出版・書道用具の販売を行っている店舗で、書道の手本となる法帖の製本を得意としている。法帖は良い拓本で成立するが、それを見分ける力が必要で、初代の廣瀬保吉は、ある書道家から「中国の良い拓本から法帖を作成してほしい」と熱望されて、膨大な資金を投入して法帖出版事業を進めたようである。

 なお、私こと樹冠人が一番印象に残ったのは、天台大師(538年~597年)の「摩訶止観」を題材にした漢詩と最澄こと伝教大師(さいちょう・神護景雲元年・767~弘仁十三年・822)の朗詠歌であった。

 月隠重山兮 擎扇喩之 風息大虚兮 動樹教之  止観
 (月重山に隠れぬれば 扇を擎げてこれに喩ふ 風大虚に息みぬれば 樹を動かしてこれを教ふ)止観

 阿耨多羅三藐三菩提の佛達わがたつ杣に名賀あらせたまへ  伝教大師
 (あのくたらさんみゃくさんぼだいのほとけたち わがたつそまにみょうがあらせたまへ)伝教大師

【参考①】

①「杣(そま)」について

 この時代の日本では国家や寺社が所有した山林(荘園)のことを「杣(そま)」と呼んだ。そして、比叡山の山林の中に建立された延暦寺の僧侶たちは、比叡山を杣と呼称したものである。

②「国風文化」について

 国風文化(こくふうぶんか)とは、十世紀の初め頃から十一世紀の摂関政治期を中心とする文化である。また、以後の院政期の文化にも大きな影響を与えた。遣唐使の停止が大きな影響を与えていると信じられているが、実は、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や国風(くにぶり)を重視する傾向は奈良時代から継続していた。つまり、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させた原因であったとみるのが適当である。中国の影響が強かった奈良文化(唐風)に対して、これを国風文化または倭(和)風文化と呼んでいる。現在の日本文化の中にも、この流れを重視する風潮が存在している。

【参考②】「和漢朗詠集巻下断簡」(e國寶-国立博物館所蔵 国宝・重要文化財)




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十四年(2012年)八月作成