『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)

    


タイトル:『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)

奉勅撰者:藤原通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経

出版書写事項:明治廿四年九月五日(1891年) 発行
       東京書肆 白楽圃梓

形態:全二冊(和装ポケット版)

発行者:江島伊兵衛

彫刻者:江島鴻山

印刷者:金子寅次郎

目録番号:nihon-0020004



新古今和歌集』の解説

 今回紹介する白楽圃が出版を手がけた「新古今和歌集」は、持ち運びに都合のよい横80mm×縦115mmのポケット版である。白楽圃は、世阿弥(世阿彌・貞治二年・1363~嘉吉三年・1443)が制作した謡曲本などを出版した宝生流謡本版元として有名な書店である。社主の江島伊兵衛(明治二十八年・1895~昭和五十年・1975)は、能楽(猿楽・申楽)文献を収蔵した鴻山文庫を設立して能楽後継者の育成に貢献した逸材であった。彼が蒐集した光悦本(嵯峨本)などの能楽コレクションは特に有名である。とにかくこの書籍は、活字は小さいが持ち運びに便利で現在でも重宝している。

 「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)は、鎌倉時代初期の建仁年間(1201年ごろ)に、後鳥羽上皇の勅命によって編纂された勅撰の和歌集である。また、「古今和歌集」以後の八つの勅撰和歌集である「八代集」の最後を飾る和歌集でもある。「古今和歌集」を模範にして編纂された「七代集」の集大成として編纂された「新古今和歌集」は、新しく流行してきた今様や連歌などに押されて下火となった伝統的な文学の復興を意図した歌集でもある。

 まず、勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)とは、天皇や上皇の勅命により編纂された歌集のことである。「古今和歌集」に始まって、「新古今和歌集」を経て「新続古今和歌集」までの五百三十四年の間で、二十一の勅撰和歌集が存在し、総称として「二十一代集」と呼ばれている。また、南北朝時代に南朝が編纂した「新葉和歌集」は準勅撰和歌集とも呼ばれている。

 「二十一代集」と呼ばれる勅撰和歌集は、「古今和歌集」から始まって「後撰和歌集」「拾遺和歌集」「後拾遺和歌集」「金葉和歌集」「詞花和歌集」「千載和歌集」「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」「続後撰和歌集」「続古今和歌集」「続拾遺和歌集」「新後撰和歌集」「玉葉和歌集」「続千載和歌集」「続後拾遺和歌集」「風雅和歌集」「新千載和歌集」「新拾遺和歌集」「新後拾遺和歌集」「新続古今和歌集」の二十一の和歌集である。

 また、編集時期による分類方法として、三代集(古今和歌集・後撰和歌集・拾遺和歌集)・八代集(古今和歌集から新古今和歌集まで)・十三代集(新勅撰和歌集から新続古今和歌集)と呼ぶ場合がある。つまり、「三代集」と「八代集」は重複していることになる。

 後鳥羽上皇(ごとばじょうこう・治承四年・1180~延応元年・1239)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第八十二代の天皇である。源平興亡の忙しい時代を生きた天皇で、壇ノ浦の戦いで平家滅亡の折、宝剣が安徳天皇と共に海中に沈んだ事件で、「三種の神器」が揃わぬまま即位した天皇でもあった。なお、天皇家の紋章である「菊花紋章」を固定化した天皇でもあった。

 そして、後鳥羽院は政治面での活躍はあまり目立つものはないが、歌人として日本の文学史上に数々の功績を遺している。鎌倉期に入って譲位した後鳥羽院は、当時の歌壇で隆盛していた藤原北家の藤原定家(ふじわらのさだいえ・応保二年・1162~仁治二年・1241)の歌風に魅了されて、式子内親王・九条良経・藤原俊成・藤原家隆・慈円・寂蓮などを重用することになる。また、「方丈記」で有名な鴨長明(かものちょうめい・久寿二年・1155~建保四年・1216)などの院近臣を育て、歴史上にその名を刻印せしめた。つまり、後鳥羽院は、新人発掘の天才ともいえる活躍をしたのである。

 譲位してからの後鳥羽院は、戦乱続きの世の中から逃避するかのように、和歌に没頭した。和歌所を再興して歌合を主宰し、新進気鋭の新人育成に力を注いだ。藤原定家が遺した「明月記」などの記録によれば、「新古今和歌集」については後鳥羽院自ら撰歌・配列に関って、撰者のひとりでもあったことが判明している。この歌風は後代に大きな影響を与え、現代の歌壇にまで影響して「新古今和歌集」を学ぶ者は後を絶たない程である。

 藤原定家は、藤原道長(ふじわらのみちなが・康保三年・966~万寿四年・1028)の曾孫にあたるが、官位には恵まれず出世の道からは外れた存在であった。定家は、「新古今和歌集」と「新勅撰和歌集」の二つの撰者となり、私撰和歌集の「小倉百人一首」の撰者ともなった。そして、「源氏物語」「土佐日記」の書写にも関わり、日記文学で国宝ともなっている「明月記」(冷泉家時雨亭文庫蔵:「熊野行幸記」は有名)を遺している。

 なお、明治維新後も京都に残留した藤原定家を祖とする藤原北家御左子流の血を受け継ぐ「冷泉家(上冷泉家)」のお蔭で、大震災や戦争の惨劇を免れて、貴重な古典籍が現存していることは、特筆しておかないといけない事であろう。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十五年(2013年)三月作成