『菅家文草・菅家後集』(かんけぶんそう・かんけこうしゅう)

    


タイトル:菅家文草・菅家後集(かんけぶんそう・かんけこうしゅう)

上段:昭和四十一年(1966年)第一版発行
   著者:菅原道真
   校注者:川口久雄
   形態:一巻 全一冊(B5変形活版)
   発行者:岩波雄二郎
   印刷者:白井倉之助
   発行所:株式会社岩波書店

下段:昭和十一年(1936年)発行
   著者:菅原道真
   附記:北野神社宮司 松平静
   形態:一巻 全一冊(B6活版)
   発行兼編輯者:藤木諭吉
   印刷者:須磨勘兵衛
   印刷所:内外出版印刷株式会社印刷部

目録番号:nihon-0030001



菅家文草・菅家後集』の解説

 『菅家文草・菅家後集』は、平安時代前期に活躍した学問の神様で有名な右丞相・菅原道真(すがわらのみちざね・承和十二年・845~延喜三年・903)が醍醐天皇の勅願で執筆した漢詩文集で、公的記録の『三代実録』と私的記録の『菅家文草・菅家後集』は、道真の伝記史料の双璧である。

 今回紹介する上段の『菅家文草・菅家後集』は、岩波書店発行の日本古典文学大系の一冊であるが、その構成は作品目次・解説・凡例・詩篇の第一巻から第六巻まで、菅家後集第十三巻、散文篇の第七巻から第十二巻まで、参考附載、補注が掲載されている。そして、下段の『菅家後集』は、北野神社が発行したものである。

 岩波書店発行の『菅家文草・菅家後集』を校注した川口久雄(明治四十三年・1910~平成五年・1993)は、比較国文学者で金沢大学法文学部の教授を務めた文学博士である。平安朝漢文学を専門として、西域にまで研究心を広げ、比較文学の領域に踏み込んだ業績には定評があった。

 菅原道真の祖父の菅原清公と父の菅原是善は共に大学頭と文章博士に任ぜられ侍読も務めた学者の家系であった。また、母方の伴氏は大伴旅人・大伴家持ら高名な歌人を輩出している家系である。道真は宇多天皇に重用されて、一地方官の讃岐守が短期間に蔵人頭・参議式部大輔・左大弁・勘解由長官・春宮亮、そして右大臣にまで昇進し「寛平の治」を支えた一人であった。

 道真は醍醐天皇の時代にも右大臣として「延喜の治」を支えた。しかし、左大臣の藤原時平の讒訴により、大宰府へ権帥として左遷されて悲運のうちに没した。道真の死後、京では天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となり、正一位・太政大臣の位が追贈された。

 『菅家文草』は、全十二巻で構成され、468首の漢詩と169編の散文を収録している。第一巻から第六巻までは詩、第七巻から第十二巻までの散文は賦・銘・賛・祭文・記・詩序・書序・策問・対策・詔勅・奏状・願文・呪願文など分類して収録されている。特に、白居易の『白氏文集』の影響が大きく、引用の巧みさと流麗さは後代の漢詩文学の手本となった。そして、『菅家文草』の編纂直後に道真は大宰府に左遷されたのである。

 白居易(772年~846年)は、中唐の詩人で字が楽天であることから「白楽天」の名でも有名である。彼の家系は地方官として身分の低い家系の出身者であったが、二十九歳で科挙の進士科に合格し、翰林学士や左拾遺を歴任した。社会や政治批判を主題とする「新楽府」を多く制作している。伝承によれば、老女に読み聞かせをするため、平易な言葉を選択して作詩したと伝わっている。

 仏教徒でもあった白居易の詩は、白居易存命中に平安時代初期に活躍した留学僧恵萼(えがく)により『白氏文集』が伝来し、平安文学に多大な影響を与えた。菅原道真と白居易の漢詩が比較されたり、紫式部が彰子に『白氏文集』を教授したことや、清少納言の『枕草子』に『白氏文集』が登場し、紫式部の『源氏物語』が白居易の「長恨歌」に影響を受けていることなど、当時の貴族社会に広く浸透していたことが窺える。また、白居易自身も日本での評判を知っていたようである。

 恵萼は、平安時代前期の僧で皇太后橘嘉智子の命を受けて唐に渡り、五台山に袈裟などを寄進した。その後、日本に禅を弘めるために義空を伴い帰国した。再び入唐した(三回入唐説もある)が、補陀山に補陀洛山寺を開き、この地に留まって生涯を終えたようである。

 『菅家後集』の正式な書名は『西府新詩』と呼び、道真が死の直前に『長谷雄草紙』の主人公である紀長谷雄(きのはせお・承和十二年・845~延喜十二年・912)に贈ったものである。今回紹介する北野神社発行の『菅家後集』には「菅家後集巻第十三」とあり、道真が大宰府に左遷される前の詩七首、左遷後の三十九首、奏状二篇を収録し、開巻第一に醍醐天皇の御製、巻尾に「示勅使」の一首が附加されている。

 『長谷雄草紙』で紹介した紀長谷雄は、図書頭・文章博士・大学頭などを歴任した参議で、醍醐天皇の侍読となり中納言にも昇進した。菅原道真や大蔵善行に師事し、道真の建議により中止となった最後の遣唐使の副使に抜擢され、『菅家後集』の編纂にも携わった。

 やはり『菅家文草』より左遷の辛酸を経験した後に作詩した『菅家後集』が迫力があるので抜粋して少し紹介しておく。なお、現代訳は先人の学恩を拝受していることを付け加えておく。

【敍意一百韻】(抜粋)

生涯無定地 運命在皇天
「人の生涯は確かに定まった地位はなく、運命は天のしろしめすところである。」

職豈圖西府 名何替左遷
「私が太宰権帥など鎮西の府に職を得るなど予想もしなかったし、正三位右大臣大将ともあろう身の上から左遷という名に替ることがあろうとはどうしたことであろうか。」

貶降軽自芥 駈放急如弦
「自分は塵芥よりも軽々しく捨てられ、弦を放たれた矢よりも急に京から追放された。」

牛涔皆坎穽 鳥路惣鷹鸇
「牛のひずめの跡さえも私を陥れる穴であったり、鳥の飛び行く道に鷹や隼が待ち伏せしているようである。」

傳送蹄傷馬 江迎尾損船
「京から布告の伝令が送られていて駅で蹄の傷んだ馬しか与えられず、江の渡場では破損した船しか用意されていなかった。」

移徒空官舎 修営朽采橡
「永く空家になっていた官舎に移住することになり、朽ちた垂木を修理するなどして住めるようにしたのである。」

殺傷軽下手 群盗穏差肩
「人を殺傷するなど軽々と行う盗人は、肩を組まんばかりに群がって来ては盗んでいく。」

貪婪興販米 行濫貢官綿
「役人などは米の販売はするが、官綿を盗んで年貢に充て私腹を肥やす行いが横行している。」

詞拑触忌諱 筆禿述麁癲
「現在の境遇では詞に触ることもできず避けようとするが、それを抑えることも出来ず書きなぐっているので粗末で気が狂った筆になってしまった。」

思将臨紙写 詠取著燈燃
「将にその思いを抱きながら紙に臨んで詠じてみたが、やがて燈火に燃やしてしまうので何も残っていない。」

覆巣憎殻卵 捜穴叱蚳蝝
「巣を覆しては殻卵を憎み、穴を捜しては蟻やいなごの子を叱るように、藤原一族は過酷にも一族縁者に至るまで罰した。」

法酷金科結 功休石柱鐫
「厳しい法の手かせ足かせに縛られているのみならず、一生の功績は抹殺され捏造された罪状だけが永久に伝えられるようになった。」

悔忠成甲冑 悲罰痛戈鋋
「忠一筋に何の恐れることがあろうかと信念でやった事であるが、悲しくも災いを招き酷しい刑罰に遭遇したのである。」

敍意千言裏 何人一可燐
「この千言の裏に思いのたけを敍べ尽したが、一体誰がこの百韻を読んで一度くらい憐れんでくれるであろうか。」


 『菅家後集』の「敍意一百韻」は、五言古詩二百句つまり合計千言となるが、政治闘争に敗れた官人の憂き目、優雅な京生活から奈落の地獄に突き落とされ、辛酸を舐めた左遷旅から謫居生活の苦労が窺える漢詩文である。また、怨み辛みの遺恨漢詩文の感が強く印象に残る漢詩文集でもある。左遷先で作詩を禁じられて漢詩人としての道真は抹殺されたのである。

 社会批判・政治批判を詩に託した白居易も左遷後の作風は「閑適詩」に比重が置かれた。その境遇を想像しながら白居易の「鳥翼殻卵 虫舎蚳蝝」の漢詩を想起する言葉を使っている『菅家後集』であるが、一族縁者への危害が厳しかったとはいえ、私こと樹冠人には「道真ほどの偉丈夫が、白居易の如く、社会や政治批判を主題とする作詩を何故書き続けなかったのか? 一族は憂き目に会うが、京には紀長谷雄などの門弟たちは残留していたのに、しかし、藤原一族の結束は固く反撃の隙はなかったのか?」などの疑問が残っている。

 そして、道真は四十六編の『菅家後集』を遺して、子供達に「ここはどこの細道じゃ、天神さまの細道じゃ、どうぞ通して下しゃんせ・・・・・」と歌われながら神に祭り上げられたのである。

【参考】藤原時平について

 藤原時平(ふじわらのときひら・貞観十三年・871~延喜九年・909)は、平安時代前期の公卿で、藤原北家の摂政関白太政大臣であった藤原基経の長男である。父の基経の死の時点ではまだ若年であったため、宇多天皇は親政を始め、皇親である源氏や菅家の菅原道真を登用した。そして、醍醐天皇の時代になると菅原道真と左右大臣に昇格し道真を讒言して大宰府へ左遷させた。時平の早すぎる死は怨霊となった菅原道真の祟りと噂された。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十六年(2014年)一月作成