『養生訓』(ようじょうくん)

    


タイトル:『養生訓』(ようじょうくん)

編録:貝原篤信

出版書写事項:昭和八年十一月 発行(非売品)

版心:正徳三年(1713年) 貝原篤信編録

形態:八巻全一冊 和装中本(A5版)

編輯兼発行者:小倉 博

印刷者:山本 晃

印刷所:東北印刷株式会社

目録番号:win-0080006



養生訓』の解説

 『養生訓』(ようじょうくん)は、江戸時代初期に活躍した本草学者で儒学者の貝原篤信こと貝原益軒(かいばらえきけん・寛永七年・1630~正徳四年・1714)の編録著書である。その構成は、巻第一 総論上、巻第二 総論下、巻第三 飲食上、巻第四 飲食下・愼色慾、巻第五 五官・二便・洗浴、巻第六 愼病・擇醫、巻第七 用薬、巻第八 養老・育幼・鍼・灸法、後記から成り立っている。

 養生訓の後記には、「群書の内養生の術を説ける古語をあつめて門客にさづけ、其門類をわかたしむ。名づけて頤生輯要と云。養生に志あらん人は考がへ見給ふべし。ここにしるせしは、其要をとれる也。」とあり、『養生訓』は『頤生輯要(いせいしゅうよう)』の要約本であることが明かされている。また、今回紹介する『養生訓』は、正徳三年(1713年)版の原本を復刻したもので、使用されている用紙は「宮城県名取郡中田村柳生阿部亮作工場特製の美濃紙」とある。

 貝原益軒は、筑前国福岡藩の黒田長政(くろだながまさ・永禄十一年・1568~元和九年・1623)に仕えた貝原寛斎の五男として生まれ、名は篤信、字は子誠、通称は久兵衛、号は柔斎・損軒・益軒を使用した。益軒は成長し二代藩主の黒田忠之に仕えたが、忠之の怒りに触れ七年間の浪人生活を送ることになる。

 しかし、三代藩主の黒田光之のときに許され、藩費で京師留学を命じられ本草学や朱子学などを学んだ。京師では藤原惺窩の門人である松永尺五に入門し、その門人の木下順庵や『白鹿洞学規集註』で紹介した山崎闇斎など広い交友関係を築いた。

 帰藩してからは、藩内で朱子学の講義を実施したり、朝鮮通信使への対応を担当した。また、佐賀藩との境界問題が勃発した折には解決のために奔走するなど重責を担った。藩命により「黒田家譜」を編纂し、藩内をくまなく巡回して「筑前国続風土記」も編纂して、江戸時代初期の福岡藩の基礎構築の要となった。

 七十歳で現役を退き著述に専念し、今回紹介する『養生訓』や『和俗童子訓』『五常訓』などの教育書を始め、本草書である『大和本草』『菜譜』『花譜』や思想書の『大擬録』や紀行文の『和州巡覧記』など、生涯に六十部二百七十余巻にもおよぶ著作を遺した。

 本草学(ほんぞうがく)は、中国で発展集大成された医薬に関する学問である。神仙思想が発展して方術が隆盛した時代に、神仙家の薬と医家の薬とを区分するために「本草学」は誕生した。梁時代の陶弘景(456年~536年)が、『神農本草経』に補注を加えて、約730種類の薬を記録し、本草学の基礎を築いたと言われている。明時代に李時珍が約1870余種類の薬種を収録した『本草綱目』を著述し、本草学の集大成といわれているが、日本の本草学に大きな影響を与えた。

 日本においては、奈良時代から本草学に関する書籍は読まれており、平安時代には『本草和名』という、本草の和名を漢名と対比した書籍が編纂された。室町時代の日明貿易で輸入された『本草綱目』を契機に、江戸時代には本格的な本草学研究が始まった。林羅山が『多識篇』を著し『本草綱目』を解説し、以後盛んに研究が進められた。

 そして、今回紹介した貝原益軒は『大和本草』を著わし、田村藍水や門下の平賀源内などの著名な本草学者も出現した。特に、江戸時代中期に活躍した寺島良安が編纂した類書(百科事典)の『和漢三才図会』は日本本草学の集大成ともいえる薬種を掲載して、日本初めての事典として広く活用された。なお、現在の日本においては本草学は「博物学」と表現されて研究されている。

 『白鹿洞学規集註』で紹介した山崎闇斎(やまざきあんさい・元和四年・1619~天和二年・1682)や『聖教要録』で紹介した山鹿素行(やまがそこう・元和八年・1622~貞享二年・1685)や『集義和書』で紹介した熊沢蕃山(くまざわばんざん・元和五年・1619~元禄四年・1691)などは、江戸時代初期に益軒と同時代を生きて日本的儒教学を模索した儒学者で、西洋中世以後のルネサンス的人間を想起させる逸材であった。そして、彼らには以下のような共通点があった。

 ①応仁の乱以降やっと平和を迎え、自我を発見する道を与えられ、新時代の人間性の追究を行った。
 ③彼らは、戦国時代の戦災者や浪人生活者で、生活に何ら制約を受けない自由な民衆であった。
 ②少年時代に寺に預けられたが、寺を飛び出して、現実の人間生活を対象にした学問を追究した。
 ④古典を究め、古典的教養の根拠を持って徳業を進め、人格形成の基礎を構築した。
 ⑤「人間」の発見から「自然」の発見を推進し、自然科学研究の基礎を提示した。
 ⑥彼らが経営した塾は官学成立以前の私学であり、彼らは民間の儒学者先生であった。

 『養生訓』は、八十三歳になった正徳二年(1712年)に、中国の古典に基づいて実践した益軒の実体験を提示した書物で、彼が著述した中では最もよく読まれた著作で広く流布したものである。

 幼少のころから読書家であった益軒は、書物だけに頼らず、自分の足・目・口を駆使した体験を重視して確かめた。彼の著作からは実証主義的な行状が読み取れ、特に、『養生訓』はその集大成の著述でもある。「人間にとっての実益」を真剣に思考し、平易な文体で著述され、多くの人に参考となるように書かれているのが特徴でもある。

 健康な生活の暮し方について具体的な例を示して解説したもので、特に、長寿のための身体の養生や心の養生を具体的に説いているところに特徴がある。例えば、『孟子』の「君子の三楽」を例示して、養生の視点から「三楽」について「人として正しい道を歩き、善を楽しむこと」「病なく快く楽しむこと」「長命で人生を長く楽しむこと」と掲載されている。そして、その条件は、「あれこれ食べてみたいという食欲」「色欲」「むやみに眠りたがる欲」「徒らに喋りたがる欲」を抑制することが指摘されている。

 また、前漢書に班固が曰く「有病不治常得中医」と、「病あれども、もし其症を明らかにわきまへず、其脈を詳に察せず、其薬方を精しく定めがたければ、慎んでみだりに薬を施さず。ここを以病あれども治せざるは中品の医なり。」と勧め、孫思邈が「人故なくんば薬を餌べからず。偏に助くば、蔵気不平にして病生ず。」と言っているとむやみに薬は飲むなと勧め、明時代の劉仲達が鴻書に、「病あってもし明医なくば薬をのまず、只病のいゆるをしづかにまつべし。」と言っていると薬の使用法などを提示した。

 班固(はんこ・32年~92年)は、中国後漢初期の歴史家で文学者である。また、孫思邈(そんしばく・541年?~682年?)は、中国唐時代の医者で道士でもあり、世界史上有名な医学者・薬学者で「薬王」とも称され、現代の多くの中国人は「医神」として奉っている。

 これら全ては彼の実体験を披歴したもので、彼の妻もよく実践し、晩年には夫婦仲睦まじく福岡から京師など物見遊山の旅に出かけるなど、実証を示しながら長生きした。『養生訓』で益軒が説いた内容は、今日の日本の高齢化社会における「養生」に繋がるもので、その精神が見直されている。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)七月作成