『集義和書』(しゅうぎわしょ)

    


上部写真
タイトル:『集義和書』(しゅうぎわしょ)
出版書写事項:昭和二年(1927年)五月十三日 発行
著者:熊沢蕃山
形態:全一冊 (新書サイズ)
編纂者:塚本哲三
印刷兼発行者:三浦理
印刷所:有朋堂印刷所
発行所:有朋堂書店

下部写真
タイトル:『蕃山先生年譜』(ばんざんせんせいねんぷ)
出版書写事項:大正六年(1917年)十一月十五日 再版
編纂者:片山重範
形態:全一冊 和装中本(A5版)
発行者:有森新吉
印刷者:安井宇吉
印刷所:山陽活版所
発行所:私立中學閑谷黌

目録番号:win-0080005



集義和書』の解説

 『集義和書』(しゅうぎわしょ)は、江戸時代初期に活躍した陽明学者で息遊軒とも号した熊沢蕃山(くまざわばんざん・元和五年・1619~元禄四年・1691)が著述した書籍である。

 熊沢蕃山は、『翁問答』で紹介した中江藤樹(なかえとうじゅ・慶長十三年・1608~慶安元年・1648)の門下で高弟の一人である。大儒者の荻生徂徠(おぎゅうそらい・寛文六年・1666~享保十三年・1728)は「仁齋の道德、了介の英才、余が學術を合せて一と爲さば、聖人と謂ひつべし」と称賛し、『勝海舟関連目録』で紹介した勝海舟(かつかいしゅう・文政六年・1823~明治三十二年・1899)が「儒服を着た英雄」と評価した逸材で、反骨精神旺盛な儒学者でもあった。そして、蕃山は才徳兼備の風格の持ち主で、経世済民の真髄を究めた実践主義者でもあり、出処進退において敬慕すべき大自由人でもあった。

 『蕃山先生年譜』(下部写真)で蕃山の行状を追ってみると、

 字は了介・通称は助右衛門こと熊沢蕃山は、京都で浪人をしていた野尻藤兵衛一利の長男として生まれ、母方の祖父で福島正則(ふくしままさのり・永禄四年・1561~寛永元年・1624)の家臣であった熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗った。

 そして、十六歳の時、戦国武将で有名な池田輝政(いけだてるまさ・永禄七年・1565~慶長十八年・1613)の孫にあたる備前国岡山藩主の池田光政(いけだみつまさ・慶長十四年・1609~天和二年・1682)の児小姓役として出仕するが、島原の乱に参陣することを許可されず、近江国桐原(現在は滋賀県近江八幡市)の祖父の元に戻り、二十三歳から京師で師を求めていたが、伊予国大洲藩を致仕し近江国小川村(現在は滋賀県高島市)に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶことになった。

 そして、二十七歳の時、蕃山は再び板倉周防守重宗や京極高通の口添えで岡山藩に再出仕することになる。池田光政は陽明学に傾倒していたため、藤樹の教えを受けていた蕃山を重用したのである。また、光政は『細字法華経』など多くの古書を筆写研究したことでも有名な文化人で芸術家でもあった。蕃山は全国に先駆けて開校した藩校「花畠教場」を中心に活動し、庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草して、『史記十傳纂評』でも紹介した日本初の庶民学校として開かれた「閑谷学校」の前身ともなった。

 岡山藩時代に備前備中の二国を襲った洪水と大飢饉の際には光政を補佐して危機を乗り越え、王陽明の生涯を彷彿とさせる経世済民に力を尽くして岡山藩初期の藩政確立に取り組んだが、大胆な藩政改革は守旧派の家老らとの対立をもたらし、また、幕府が官学とする朱子学とは対立する陽明学者であった蕃山は、林羅山らの批判を受けて三十九歳で岡山城下を離れ、知行地の和気郡寺口村(現在は岡山県備前市蕃山)で隠棲生活に入った。

 しかし、蕃山は幕府と藩の反対派の圧力に耐えがたく、遂に岡山藩を去り京師に移り住み私塾を開いて、四十一歳の時には、豊後国岡藩主の中川久清の招聘を受け竹田に赴き土木指導などを行った。しかし、その名声が高まるにつれて再び幕府に監視され、京都所司代の牧野親成により京師から追放されることになった。

 追放の後には、大和国吉野山に逃れ、さらに山城国鹿背山(現在は京都府木津川市)に隠棲するが、五十一歳の時に、幕命により播磨国明石藩主で老中の松平信之(まつだいらのぶゆき・寛永八年・1631~貞享三年・1686)の預かり流罪となり、太山寺(現在は神戸市西区)に幽閉された。

 浪人の身となった蕃山は、以後著述に専念し執筆活動を続け、この時に著述したのが今回紹介する『集義和書』や『集義外書』など、多くの自論を纏め上げた。そして、幕府の政策である参勤交代や兵農分離などを批判し、また岡山藩の批判をも行った。

 ついに、幕府は六十九歳の高齢となった蕃山を松平信之の嫡子である下総国古河藩主で日向守の松平忠之(まつだいらただゆき・延宝二年・1674~元禄八年・1695)にお預け流罪にして、蕃山は古河城内の竜崎頼政廓に蟄居謹慎させられ、反骨の儒学者である蕃山は古河城にて享年七十三歳の生涯を閉じたのである。

 『白鹿洞学規集註』で紹介した山崎闇斎(やまざきあんさい・元和四年・1619~天和二年・1682)や『聖教要録』で紹介した山鹿素行(やまがそこう・元和八年・1622~貞享二年・1685)や『養生訓』で紹介した貝原益軒(かいばらえきけん・寛永七年・1630~正徳四年・1714)などは、江戸時代初期に蕃山と同時代を生きて日本的儒教学を模索した儒学者で、西洋中世以後のルネサンス的人間を想起させる逸材であった。

 そして、彼らには以下のような共通点があった。

 ①応仁の乱以降やっと平和を享受し、自我を発見する道を与えられ、新時代の人間性の追究を行った。
 ②彼らは、戦国時代の戦災者や浪人生活者で、生活に何ら制約を受けない自由な民衆であった。
 ③古典を究め、古典的教養の根拠を持って徳業を進め、人格形成の基礎を構築した。
 ④「人間」の発見から「自然」の発見を推進し、自然科学研究の基礎を提示した。
 ⑤彼らが経営した塾は官学ではない私学であり、彼らは民間の儒学者先生であった。

 朱子学を依処とした「昌平黌や藩校」と異学とされた古学派や陽明学を依処とした「私塾」との関係は、現代で言えば「公教育の学校」と「私教育の学習塾」との関係と酷似した構造である。現代においても共通した点は、「社会一般の常識を学ぶ公教育と、より実践的な人生闘争の術を学ぶ学習塾」と考えて通わせている日本人の学問感が窺える構造である。

 江戸時代の大儒者と呼ばれた荻生徂徠や太宰春台や藤田幽谷や藤田東湖や頼山陽や渡邊崋山や横井小楠や佐久間象山や吉田松陰や山田方谷たちは、蕃山の行状を模範として藩政や国政を語り、幕末にはその思想を倒幕の理論的基礎とした経緯がある。また、前述の「儒服を着た英雄」と述べた勝海舟は、蕃山の行状とその影響力を知悉しての発言であったのである。そして、明治四十三年(1910年)には江戸時代の学問を興隆させたとの功績により正四位が贈呈された。

 さて、蕃山の著述した作品には『論語小解』『中庸小解』『大学小解』など「小解」と命名したものが多いが、これは師匠である中江藤樹の『論語解』『中庸解』『大学解』などの著作を意識して師弟の礼を踏まえたものであった。そして、『集義和書』と『集義外書』は蕃山の二大著述であるが、今回は『集義和書』を紹介することにした。

 『集義和書』(上部写真)の初版は寛文十二年(1672年)に門人の岡嶋可祐が編集して出版した。書簡五卷・心法圖解一卷・始物解一卷・義論九卷の全十六巻で構成された。

 書簡五巻は、「質問の手紙の大略」を例示して、「これに対する返書の大略」として自己の思想を表明した形式で著述された。

一 來書畧。博学にして、人にさへ孝弟忠信の道を敎へられ候人の中に、不孝不忠なるも候は、いかなる事にて候や。
 返書略。武士の武芸に達したるは、人に勝つことを知るにて候へども、武功なき者あり。無芸にても武功ある人多し。兵法者の無手の者に切られたるあり。学問の道も同前に候。夫智仁勇は文武の徳なり。礼楽弓馬書數は文武の芸なり。生付き仁厚なる人は、文学せざれども孝行忠節なるものなり。生付き勇強なる人は、武芸をしらでも勝負の利よきものなり。しかればとて、文武の芸廢るべき道理なければ、古の人は、其身に道を行ふ事全からぬ人にても、文才に器用なる者には学問をさせ、ひろく文道を敎へて、人民のまどひをとき、風俗をうるはしくし、その身に勇気少き人にても、武芸に器用なる者には、弓馬をならはし、あまねく兵法を敎へて、人民の筋骨をすこやかにし、能を遂げしむ。国の武威を強くせんとなり。これ主將の人を捨てず、ひろく益を取給ふ道なり。学力無くして孝行忠節なるは、気質の美なり。道を知らざる勇者をば、血気の勇ともいへり。人の徳を達し才を長ずることは、文武にしくはなし。今宣へる人は、文の末のみを知て本に達せず。武も又かくの如し。且天の物を生ずること、二つながら全きことなし。四足のものには羽なく、角あるものには牙なし。形あるものは必ずかくる所あり。大かた文才に器用なる者は徳行にうすく、徳行によき人は文才拙きことあり。智聡明なる生付きの者は行かけやすし。行篤実なる者は智に足らざる所あり。君子は其善を取りて備らん事を求めず。小人は人のみじかき所をあらはして、其美をおほへり。すべて世に才もなく徳もなき人多し。才あらば称すべし。徳あらば好すべし。

 心法圖解一卷は、図解を駆使して性理の解説を展開した。(上部写真参照)

 始物解一卷は、「易経の繫辞伝」の抜萃節を和解して提示した。

 義論九卷は、各題目の心友の問いに対応した「答へて曰はく」と一家の主張を披瀝して、蕃山の学識を観ることが出来る内容になっている。

 「心友問。論語の教は仁を主とし、大学の教は知を主とする事は何ぞや。答へて曰はく。論語は聖人いまして直に教給ふ故に、仁を主とし給ふ。仁は徳の本なればなり。大学は聖人既に去り給ひ、後聖世に出で給ふことありがたかるべき前知あるによりて、知を主とし給へり。智は徳の神明にして、性の先見するものなり。天下の惑を辨て人倫を明かにする書なれば、知を主宰として自反慎独の実体とす。聖人いまさざる時問学する人は、大学を入徳の門とし論語を入徳の室とす。」

 江戸時代の幕末には備中松山藩の大儒者で政治家であった『南洲手抄言志録』でも紹介した備中聖人と呼ばれた山田方谷(やまだほうこく・文化二年・1805~明治十年・1877)は、明治時代になって閑谷学校の後身である「閑谷精舎」が再興された折には、春秋の特別講義で『集義和書』を講義した記録が残っている。

【参考】 特別史跡「旧閑谷学校




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)七月作成