『南洲翁謫所逸話』(なんしゅうおうたくしょいつわ)

    


タイトル:南洲翁謫所逸話(なんしゅうおうたくしょいつわ)

著者:東郷中介

出版書写事項:明治四十二年(1909年)五月十七日 再版発行

形態:一巻全一冊 和装中本(A5版)

序:富田嘉則書

発行者:川上孝吉

印刷人:中村彌三郎

印刷所:三生舎

目録番号:win-0040002



南洲翁謫所逸話』の解説

 西郷南洲こと西郷隆盛(文政十年・1828~明治十年・1877)については、「西郷南洲先生遺訓」で説明したので省略するが、西郷南洲は人生で二度離島の生活を経験している。

 一度目の離島生活は、安政六年(1862)から文久二年(1862)までの約四年間におよぶ奄美大島龍郷村での潜居である。二度目は、文久二年(1862)から元治紀元(1864)までの約二年間におよぶ徳之島・沖永良部島での流罪生活である。

 今回紹介する「南洲翁謫所逸話」には、富田嘉則の序文に続き、「奄美大島龍郷村での謫居前後ノ概略」「徳之島及沖永良部島流竄」(「流竄」とは、流れのがれるの意味)と離島生活の状況が詳しく記載されている。そして、三十九話におよぶ「南洲翁逸話」が掲載されている。

 岩波文庫「西郷南洲遺訓」の編者で二松学舎大学や大東文化大学に関係した漢学者・陽明学者の山田濟齋(せいさい・慶應三年・1867~昭和二十七年・1952)は、「書後の辭」で「遺教」の章をまとめるに当たり、「弧島の南洲(絶島の南洲か?)」と「南洲翁謫所逸話」を定本にしたことを記載した。

 奄美大島龍郷村での潜居では、島妻の愛子(愛加奈)を娶り、長男の菊次郎(明治時代の第二代京都市長)と菊子(大山巖の弟の大山精之介の妻)が生まれている。大島での生活は、「専ラ読書習字ノ教授ニ余念ナク又常ニ書ヲ繙(ひもとい)テ精神ヲ修養スルノ外児童ヲ集メテ古今聖賢ノ事蹟ヲ説キ以テ唯一ノ楽トナシ」と記述されている。そして、同郷人の重野安繹の慰問を受けている。

 沖永良部島での流罪生活の記載では、「鹿児島ヨリ携帯セシ書冊ハ其数極メテ多ク三個ノ行李ハ悉ク書冊ヲ以テ充満セリ習字及作詩ハ翁ノ常ニ楽ミトセル所ニシテ時ニ又勤王ノ士ノ詩歌ヲ集メテ之ヲ愛誦ス」とあり、「言志四録」「伝習録」「李忠定公奏議」などを愛読している。そして、座牢においては「愛讀スル嚶鳴館遺稿(細井徳民・平洲の著作)ヲ自ラ謄写シ之ヲ政照(監視役の土持政照)ニ與ヘテ日ク民ヲ治ムルノ道ハ此一巻ヲ以テ足レリトス」と牧民の道を講究したと記述されている。

 また、逸話については、地租改正の時期の苦労話として、「地租改正に関して偶々鹿児島県下帖佐村に苦情あり竹槍騒動を惹起せむとす翁之を聞くや直に縣廰(県庁)に至り縣令に告けて曰く是等の場合には宜しく余を使用せられよ余鎮撫の任に當らむと縣令之を容る翁曰く肩書なけれは責任なくして都合悪しからむ希くは余に雇を命せられよと是に於て大山縣令は翁に對して鹿児島縣雇を命すとの辞令を交付しぬ翁恭しく之を拝受して暴動地帖佐村に至る暴民等翁の来るを聞きて自ら解散し説諭を加ふるに及はすして早く既に鎮静に帰したり」と南洲翁の人徳の面を強調した記述が多い。

 最後に、勝海舟が離島に遺した詠歌と碑文を紹介しておく。

【詠歌】
「ぬれきぬを ほそふともせす こともらか なすかまにまに 果てし君かな」

【碑文】
「天の此人に大任をくたさむとするやまつ其しん志をくるしめ其身を空乏すとまこと成る哉此言唯友人西郷氏に於て是を見る今年君の謫居せられし奮所に碑石を設くるの擧(挙)あり島民我が一言を需む我卒然としてこれを誌し以てこれに應す」明治二十九年晩夏 勝安房



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)一月作成