『續文章軌範』(ぞくぶんしょうきはん)

    


タイトル:續文章軌範(ぞくぶんしょうきはん)

著者:鄒守益

出版書写事項:明治二十七年(1894年)六月三十日発行
       大阪 田中宋栄堂梓

形態:七巻全三冊 和装大本(B5版)

批選:東廓先生鄒守益

評校:漪園先生焦竑

註閲:九我先生李廷機

校閲:中村確堂(中村鼎五)

編述者:鈴木重義

発行者:田中太右衛門

印刷者:大和田和助

目録番号:koten-0020004



續文章軌範』の解説

 「文章軌範」は、中国の南宋時代の謝畳山こと謝枋得(しゃぼうとく・1226年~1298年)が編纂したものであるが、元国・明国の時代に註釈が加えられ、特に王守仁こと王陽明(1472年~1529年)が序を寄せるなど、中国では重く扱われた書籍でもある。「古文真寶」「唐詩選」などと同様に科挙試験用の教科書・参考書として重宝された。

 今回紹介する続編の「續文章軌範」は、王陽明の門人で明国の鄒守益こと鄒謙之(すうけんし・1491年~1562年)が編纂して、周秦時代から明時代の文人を紹介し、謝枋得が編纂した正本と鄒謙之が編纂した続本とも知識人に愛読され明治時代には盛んに読まれた。鄒守益は、王陽明の高弟で東廓先生と呼ばれた明時代の陽明学者である。

 「續文章軌範」は、「古文観止」「古文析義」「古文覚斯」から抜粋した模範文例となる文章を編纂した。司馬遷の文章が十一篇、蘇東坡こと蘇軾の文章が五篇と多く、韓文公の「進学解」、屈平の「漁父辞」、李太白の「春夜宴桃李園序」、王陽明の「象祠記」、魯共公の「酒味色論」、司馬光の「諫院題名記」、諸葛孔明の「後出師表」、謝枋得の「却聘書」など、六十八篇が全七巻に収録されている。

 「評本續文章軌範」の編述者である鈴木重義(天保九年・1838~明治三十六年・1903)は、江戸時代の水戸藩の武士で通称を縫殿と呼ばれた。「戊午の密勅」の際には混乱を収拾した家老職であった。「禁門の変」の後は京都で藩兵の指揮に当たった。

 校閲を担当した確堂学人こと中村鼎五(天保三年・1832~明治三十年・1897)は、江戸幕末に生まれ明治時代に活躍した近江国の漢学者で、埼玉県と滋賀県に貢献した教育者でもあった。父の中村和は近江水口藩の翼輪堂の教授を勤め藩政に貢献した人物である。鼎五は明治維新後に太政官の歴史課に勤務し明治維新の歴史の編纂に従事した。なお、同僚には「西郷南洲先生遺訓」で紹介した重野安繹(文政十年・1827~明治四十三年・1910)がいた。後に埼玉と滋賀の師範学校長を歴任して地域教育に貢献したことでも有名であったことは、「正文章軌範」で説明した。

 この書籍の模範文例には、「孫盛夫評」「洪容齋評」「鄒東郭評」「羅錦山評」「林次崖評」「李九我評」など中国の高名な文人の批評が掲載され、上段には「確士云」「確士評」として日本の確堂中村鼎五の批評が掲載されて後学の勉強材料が豊富に盛り込まれている。

 この書籍には、司馬遷の「史記」で取り上げられ、幕末志士たちの模範となり盛んに読まれた「伯夷傳」と「屈原傳」が掲載されている。

 中国の殷時代の伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の二人の王子の逸話は有名であるが、孔子(紀元前551年~紀元前479年)は「論語」で「伯夷と叔斉は事を憎んで人を憎まない人たちであったので、怨みを抱いて死んだのではない。」と説いた。その説に疑問を抱いた司馬遷は「史記」で「彼らは怨みを抱いて死んだのではないか?」そして、正しい人が不幸になることに疑問を感じ、「天道是か非か」と読者に訴えた。まさしく、この疑問が「史記」の基調となっている。ちなみに、日本の徳川光圀(寛永五年・1628~元禄十三年・1701)は青年期に「史記 伯夷列伝」を読んで兄との関係を二人の王子の逸話から学び、発奮して学問に勤しんだと伝わっている。

 吉田松陰の「照顔録 附坐獄日録」でも説明した屈原こと屈平(紀元前343年~紀元前278年)は、中国文学史でも早い時期に登場した大詩人で「楚辞」で有名である。後に出現した文人たちは屈原を模範として作詩したと云っても過言ではない。屈原の業績は司馬遷の「史記 屈原賈生列伝」に詳しいが、楚の王族として生まれ懐王の左徒として国事に奔走するが、度々奸臣の讒言(ざんげん・おとしいれるために、相手を悪く言い、また有りもしない事をつくりあげ、上司に告げること。)により王から遠ざけられ左遷される。まさしく、屈原の場合も大志を抱いて国事に奔走するが讒言により不遇の生涯を送ることになる悲劇の逸話である。



   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十三年(2011年)九月作成