『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)

    


タイトル:原本複製 梁塵秘抄(りょうじんひしょう)

出版書写事項:昭和二十三年(1948年)発行

形態:二巻全一冊 (B6版)

附巻:梁塵秘抄の研究

著者:佐佐木信綱

発行者:湊元克巳

印刷者:安倍七郎

発行所:好學社

目録番号:nihon-0010009



梁塵秘抄』の解説

 「梁塵秘抄」は、平安朝末期の後白河法皇(ごしらかわ・大治二年・1127~建久三年・1180)が編纂した勅撰の今様歌集で、治承年間(1177年~1180年)に集大成されたと推定されている。

 後白河法皇は、鳥羽上皇の第四親王として誕生し「雅仁(まさひと)」と呼ばれ、近衛天皇の崩御後、第七十七代の天皇として皇位を継いだ。そして、譲位した後は三十四年間にもわたり院政を行い、保元の乱・平治の乱・治承の乱・寿永の乱と戦乱の世を過ごすことになる。鎌倉幕府とは協調路線を展開し、公武関係の枠組みの基礎を構築した天皇で、仏教を厚く信奉したことから、江戸時代の儒学者からは、徹底的に批判された天皇の一人でもある。

 そして、本来の「勅撰」(ちょくせん)とは、天皇が命じて編纂させた書籍を呼ぶのが通例であるが、「梁塵秘抄」の場合は、後白河法皇自ら編纂に関った歌集であるところに特徴がある。「今様」(いまよう)とは、現代風の流行歌との意味を持つ現代流行歌を指す言葉である。「今様」は、歌詞に旋律を付けて白拍子装束で舞う「今様舞」が有名で、「平家納経」でも有名な平清盛も白拍子にご執心であったようである。特に、源義経が京都の「神泉苑」で白拍子の静御前と出会う逸話は有名であった。

 当時は、まさに激動の時代で政治の世界では摂関政治の衰退と「院政」の確立期でもあり、武家の台頭と密接に関る時代でもあった。文化面では「国風文化」の復興期でもあり、貴族の文化が庶民に流入した時代でもあった。日宋貿易の影響もあり「唐宋八大家」で有名な宋時代の文人たちの文献が大量に輸入され、江戸時代には文章模範型となる。ちなみに、「院政」の言葉は江戸時代の儒学者である頼山陽の「日本外史」に登場して明治政府の教科書に採用され定着したものである。

 また、庶民文化の醸成期ともいえる時代でもあり、実は「梁塵秘抄」に収められた「今様」が大きく貢献する。まさに、「法華の持者」と称され法華経を暗誦していた後白河法皇の弘めた「今様」は、白拍子によって公家・武家・商家などに多大な影響を与え、生活の中で「口ずさむ歌」として民衆歌謡が定着する。つまり、日本天台宗の民衆教化に利用された「天台声明」と相まって、「今様」により「仏教」が庶民の世界に急速に流入した口伝時代でもあった。

 特に、学校教科書の「国風文化」の項目には、「浄土教の流行」のみの記載しかないが、実は「法華経の流布」が根底にあって平安朝の平和な時代の文学が誕生する。伝教大師こと最澄が伝えた「法華経」が基底にあり、貴族の間では仏教といえば「法華経」を指し、写経や暗誦が行われ教養科目の根幹を成していた。そして、「鎌倉仏教の乱立」へと時代は流れる。このことは、強調しておかないといけない項目で、教科書の変更を提案したい点でもある。

 「梁塵秘抄」の名は、順徳天皇の「八雲御抄」や「夫木和歌抄」や「本朝書籍目録」や兼好法師(吉田兼好)の「徒然草」などに記載されて世に知られていた。しかし、散逸して唯一見ることができたのは、塙保己一(はなわほきいち・延享三年・1746~文政四年・1821)が編纂した「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」に、「口伝集巻第十」が収められていただけであった。

 塙保己一は、江戸時代に活躍した国学者で、失明後は「検校(けんぎょう)」として学問を追究して総検校の位に登りつめた国学者でもあり、晩年の賀茂真淵(かものまぶち・元禄十年・1697~明和六年・1769)に師事し「六国史」などを学び、古書の散逸を危惧して寺社・公家・武家を廻り、史書や文学作品の概略を纏め上げた666冊から成る「群書類従」を完結できたのは七十歳代であったと伝わっている。

 また、「群書類従の版木」は国の重要文化財に指定され、この版木は20字20行に統一されていて、現代の原稿用紙の原型として知られている。その後、「続群書類従」も企画され塙保己一の死後も門弟たちの継承により完結した。

 なお、同時代を生きた儒学者である頼山陽(安永九年・1780~天保三年・1832)も教えを請い、国学者の平田篤胤(安永五年・1776~天保十四年・1843)も入門した。そして、アメリカの盲目著述家のヘレン・アダムス・ケラー(1880年~1968年)は、塙保己一を手本として生きていったことは有名なことであった。

 「検校」とは、「平家物語」の語り部で有名な琵琶法師などが起源とも言われているが、平安・鎌倉時代の寺社・荘園の事務監督の役職名であったのが、室町時代以降には盲人官僚の最高位の名称として定着し、江戸時代には当道座(座組織)の総取締を「惣検校」と定め京都(佛光寺近くに「職屋敷」があった)に設置したものである。検校は将軍への拝謁も可能で、専用の着物に頭巾や杖の使用を許可されて独特な風貌を醸し出していたようである。ちなみに、検校については勝海舟関連目録の「勝海舟」で説明した通りに、勝海舟の祖父はこの検校だったことは有名な話であった。

 「梁塵秘抄」は、「本朝書籍目録」(鎌倉時代に編纂された現存最古の国書目録)の「管弦」の項目に、「梁塵秘抄、廿巻、後白川院勅撰」とあり、歌詞集十巻、口伝集十巻の全二十巻で構成されていたと推測されていた。「群書類従」の口伝集巻第十のみ見ることが出来た「梁塵秘抄」であるが、明治四十四年に和田英松博士によって「梁塵秘抄巻二の写本二冊」が発見され、それを佐佐木信綱博士が研究途中に綾小路家の「秘抄巻一の一部」と「口伝集巻一の一部」の書写本の存在を確認し、その目録により全二十巻の全体像を知ることになる。結局、現存書写本は「梁塵秘抄巻一の一部」「梁塵秘抄巻二の全部」「口伝集巻一の一部」「口伝集巻十の全部」が確認されている。

 今回紹介する「原本複製 梁塵秘抄」(好学社・佐佐木信綱編)の梁塵秘抄巻二には、現存書写本の全部が掲載されている。巻首には、「越後國頸城郡高田室直助平千壽所蔵」と「邨岡氏印」の印記があり、原本は一冊であったものを書写者が便宜のために甲と乙の分冊にして、巻尾に「此一帖不慮和傳秘本事也 正韵(花押)」「右一冊以寂蓮手跡徹書記門弟正韵奥書判形有之本書寫畢」と記載して、原本が寂蓮(保延五年・1139~建仁二年・1202)の手跡であるとの伝承を証明している。

 寂蓮は、平安朝末期から鎌倉期に活躍した歌人・僧侶で、僧侶俊海の子として生まれ、「千載和歌集」の編者で有名な藤原俊成(永久二年・1114~元久元年・1204)の養子となり藤原定長と名乗るが、藤原定家(ふじわらのさだいえ・応保二年・1162~仁治二年・1241)が誕生したために仏門に入った。また、寂蓮は歌道に優れて「新古今和歌集」の撰者としても有名であった。

 佐佐木信綱(ささきのぶつな・明治五年・1872~昭和三十八年・1963)は、明治時代から昭和時代に活躍した歌人で国文学者である。与謝野鉄幹(よさのてっかん・明治六年・1873~昭和十年・1935)らと「新詩会」を結成し、多くの歌人を養成したことでも有名で、御歌所寄人として「歌会始」の撰者でもあった。そして、貞明皇后など皇族に和歌を指導したことでも有名であった。

 「梁塵」とは「法華経」に説かれる「五百塵点劫」に通じる書名であると推測できるが、法華経二十八品百十五首を中心に据えた仏法賛歌の法文歌である巻二については、私こと樹冠人が青年期から、仏法用語が羅列された歌詞には、法華経が物語る叙事的・説話的内容が豊富に収録されていたことも興味をそそられた。そして、明治期の「廃仏毀釈」の困難を乗り越えて現存した巻二については、何かの因縁を感じて研究を重ねてきた文献でもある。

 巻二の目録には百十五首とあるが、実際には百十六首掲載されているので、歴史を経るうちに歌詞が削減追加された可能性がある。また、巻二は後白河法皇が一番力を注いで編纂した中心部分で、読者に謳い広めて欲しかった「今様」であったような感がある。

 また、巻二の仏教部の法文歌は、天台教学の「五時八経」に基づき構成され、法華経最第一の思想を明らかにした歌集でもある。天台大師は、「五時」で、釈尊の一代経を成道してから入滅までの時間的な順列で五期に区切った。「八経」は、経教をその内容と説き方の二つの側面から四種類に分けた教判である。天台大師(538年~597年)は、五時八教の教判を立てて、法華経が釈尊の出世の本懐であるとともに、一切衆生を救済する正法であることを明確にした。

 「梁塵秘抄巻二」を精読した範囲内では、後白河法皇は世間での風評に反して、法華経理解度はかなり高く、仏法の真髄に迫っていた可能性は高いと推測できる。しかし、朝廷における儀式等は「神仏習合」で執り行われる風習も定着した時代でもあり、「南都北嶺」に象徴される奈良と京都の仏教界の権力抗争の真っ只中でもあった。後白河法皇は受戒を「三井寺こと園城寺」で受けて日本天台宗に帰依するが、南都の「東大寺」でも受戒を受けるなど「権勢との和解」に長けた性格を有しており、権勢に翻弄された人生でもあった。

 平安時代末期の情勢は、延暦寺や園城寺は生活基盤であった「荘園」の所有権争いを巡り強訴(ごうそ)するために武装した僧兵が組織されたり、武家勢力が台頭した時代でもあった。色々な思惑が渦巻く忙しい世法の現実社会で、後白河法皇の行動からは、院政復権・朝廷権威の確立のために、「あらゆる勢力との均衡」と「台頭する勢力の崩壊」を目論んだ「日本国第一の大天狗」のイメージを強く感じる。

 この当時の日本においての仏教界は、像法時代の終焉(日本では永承六年・1051年をもって像法時代が終るとされた)と共に、末法思想が醸成された時代でもあり、「北嶺」の最高位を確保した日本天台宗の「延暦寺」は、大乗戒壇としての仏教総合道場の体裁が確立された時期でもある。

 現代では、「梁塵秘抄」を解説する書籍は「岩波書店」など相当数存在するが、その中でも天下の孤本である「原本複製 梁塵秘抄」は、誤写を見つける楽しみもあったことは正直な気持ちである。編纂当時の趣が感じられて、悠久の時間の流れと人間の偉大さを感じることができる書籍でもあった。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十四年(2012年)八月作成