『源平盛衰記』(げんぺいじょうすいき)

    


タイトル:上段:『参考源平盛衰記』(さんこうげんぺいじょうすいき)
     下段:『校訂源平盛衰記』(こうていげんぺいじょうすいき)

上段:明治十五年(1882年)初版出版
   形態:十四巻 全十冊 和装小本(B6活版)
   編者相続人兼出版人:徳川武昭
   発兌出版所:近藤活版所
   東京発兌:丸屋善七 吉川半七
   取次人:志賀二郎

下段:明治廿七年(1894年)印刷発行
   形態:四十八巻 全一冊(A6活版)
   編輯兼発行者:大橋新太郎
   印刷者:愛敬利世
   印刷所:株式会社秀英舎
   発兌書林:博文館

目録番号:nihon-0020007



源平盛衰記』の解説

 「源平盛衰記」(げんぺいじょうすいき:せいすいき)は、「平家物語」の異本で読み本系に属する軍記物語である。成立年代については、「平家物語」との前後が議論されるなど定説がなく、作者についても「平家物語」と同様に、諸説あって定説が無く作者不明である。この二種類の書籍の共通点は、平清盛(たいらのきよもり・元永元年・1118~治承五年・1181)が権勢を誇っていた二条天皇から安徳天皇に至る約二十年間の出来事が説話も盛り込んで表現されていることである。

 そして、「源平盛衰記」の特徴の一つに、四十八巻に及ぶ読み本系最大の分量と詳細な資料を網羅している点がある。つまり、知識層の欲求に耐えうる歴史事実の追究を重視して解釈しようとした意図があるからである。また、後世の文学研究にも大きな影響を与え、「平家物語」とは違った記録史の様相を呈している。

 また、もう一つの特徴に「剣巻」の存在がある。この「剣巻」は軍記物の「平家物語」「源平盛衰記」「太平記」の巻頭に付属している存在として知られているが、元々軍記物全てに付属するのか、独立した存在なのか、等々の不明な点があり、伝説説話の内容も文学的な位置づけが難しい巻である。

 「源平盛衰記」の「剣巻」には、源頼光(みなもとのよりみつ・天暦二年・948~治安元年・1021)の逸話として父満仲が作らせた「鬚切」「膝丸」の名が付いている相伝剣を、「膝丸」「蜘蛛切」と改名した逸話が掲載されている。この逸話は、「今昔物語集」「宇治拾遺物語」の「土蜘蛛退治」や「太平記」の「鬼丸鬼切」の話と類似した逸話でもある。

 源頼光は、平安時代中期の武官である。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。「らいこう」と有職読みされることが多い。満仲の長子で清和源氏の三代目である。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田:清和源氏の発祥地と謂われている)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれた。

 源満仲(みなもとのみつなか・延喜十二年・912~長徳三年・997)は、平安時代中期の武官貴族で清和源氏の祖と呼ばれている六孫王経基の嫡男である。満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件では、強盗の一味であった倉橋弘重を捕らえた逸話は有名である。経基の邸宅は京都の壬生八条の地にあり、邸宅跡は現在では六孫王神社として存在している。

 今回紹介する「源平盛衰記」(上段写真)は、史籍集覧(しせきしゅうらん)に収められている「参考源平盛衰記」であるが、徳川光圀(とくがわみつくに・寛永五年・1628~元禄十三年・1700)が「大日本史」を編纂するに際しての史料とするために、今井弘済や内藤貞顕に命じて考証編纂させ、光圀死後は安積澹泊(あさかたんぱく・明暦二年・1656~元文二年・1738)が主導した事業である。また、草稿などは徳川ミュージアム(彰考館徳川博物館)に所蔵されている。

 安積澹泊は、水戸を代表する学者として声望が高く、水戸において修史事業に全精力を傾け、「大日本史」の編纂事業の全盛期を構築し重要な業績を残した。また、同時代を生きた新井白石(あらいはくせき・明暦三年・1657~享保十年・1725)、室鳩巣(むろきゅうそう・万治元年・1658~享保十九年・1734)、荻生徂徠(おぎゅうそらい・寛文六年・1666~享保十三年・1728)らとも親交があった。

 なお、参考資料として編纂されたのは「参考保元物語」「参考平治物語」「参考太平記」そして「参考源平盛衰記」の四種類であるが、「参考保元物語」「参考平治物語」「参考太平記」は完成後に刊行された。しかし、「参考源平盛衰記」は光圀没後の元禄十五年(1702年)に完成したが、光圀の死が関係してか三十年の歳月を経て改訂作業が続けられ版行されなかったようである。

 編者相続人兼出版人の徳川武昭(とくがわたけあきら・嘉永六年・1853~明治四十三年・1910)は、水戸徳川家藩主であった徳川斉昭の十八男で、最後の水戸藩主である。十五代将軍徳川慶喜の実弟で、昭武と改名した後は、パリ万博に日本代表として参加したことは有名である。

 「史籍集覧」は、近藤瓶城(こんどうへいじょう・天保三年・1832~明治三十四年・1901)が編纂した江戸時代までの日本の史籍をまとめた叢書である。「梁塵秘抄」で解説した塙保己一が編纂した「群書類従」、その門弟が継承した「続群書類従」の後を請けて、古典保存を目的にして「史籍集覧」「続史籍集覧」を編纂刊行した。室町時代以降の合戦記を多く収録していることが優れている点で、武家の興亡を研究するためにはこの遺業を通過する必要がある。

 近藤瓶城は、幕末明治時代を生きた漢学者で、三河国岡崎藩の儒学者である。明治維新後には藩校允文館の学監に就任して、「群書類従」に未収録の史籍の刊行をめざし「史籍集覧」「続史籍集覧」を編纂し、東京に近藤活版所(のちに近藤出版部)を創設した。

 東京発兌の「丸屋善七」は書店名であるが、現在の「丸善株式会社」の前身である。医師であった早矢仕有的(はやしゆうてき・天保八年・1837~明治三十四年・1901)は、日本の株式会社第一号といわれる「丸屋商社」の創業者でもある。有的は横浜に医師として赴任し、福沢諭吉にも相談して現在の「丸善」の前身である「丸屋善八店」を横浜に開店した。そして、東京には「丸屋善七」、大阪には「丸屋善蔵」、京都には「丸屋善吉」、名古屋には「丸屋善八」を出店している。ちなみに、「ハヤシライス」は医師であった早矢仕有的が患者に推奨した食事が世間に流布したようである。

 また、「枕草子春曙抄」でも紹介した吉川半七(よしかわはんひち・天保十年・1839~明治三十五年・1902)は、現代まで「歴史」にこだわった国文学研究書等を出版し続けている老舗出版社である「吉川書房(吉川弘文館)」の創業者である。「吉川弘文館」は、出版業界の偉業と呼ばれている「国史大辞典」を出版したり、日本史研究を志す学者が必ず出版を試みる出版社としても有名である。吉川半七は、本屋の玉養堂に奉公して江戸幕末の安政四年(1857)に独立を許され、この年を「吉川弘文館」の創業年としている。

 初代半七のエピソードには大変勉強となることが伝えられている。実は、この本屋さんが商売の奉公では四種類目であった。やっと四軒目で落ち着くわけであるが、辞めた理由が大変に参考となるエピソードである。一番目は米屋さんで「時価の高低を利するは正路にあらず」、二番目は菓子屋さんで「甘味菓子は腹の毒なり」、三番目は古道具屋さんで「偽物を真物なりと人をあざむく」と、やっと四軒目の本屋さんで「世に利益する商売なり」と合点して奉公に励んだのである。まさに、「吉川弘文館」がこの精神を大切に考えて歴史を中心とした専門書を愚直に出版し続けている理由であろう。

 また、初代半七は池田屋事件などの幕末騒乱時期の元治元年(1864)に、江戸から上方(京都・大坂)に飛脚を使って書籍を買い、交通機関が発達していない時代の独占事業となる。この事業で財を成した半七は明治三年に東京の京橋南伝馬町に「吉川書房」を開店した。そして、二階に「書物来読貸観所」と称した図書館を開いた。西洋の事情がわかる翻訳書籍を多く揃えて、当時の知識人に刺激を与えたようである。

 また、「校訂源平盛衰記」(下段写真)は、「剣巻」が省略されているが「参考源平盛衰記」を定本に、挿絵も豊富に刷り込んで校訂した書籍である。発兌書林の博文館(はくぶんかん)は、明治時代には富国強兵の時代風潮に乗って、国粋主義雑誌を創刊するなど当時の日本最大の出版社として隆盛を誇った。社名は「伊藤博文」が由来しているが、創業者の大橋佐平の嫡男である大橋新太郎は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の富山唯継のモデル人物ともいわれている。

 総合雑誌「太陽」を創刊した頃が黄金時代であるが、「共同印刷」の前身である「博文館印刷所」を設置したり、私設図書館である財団法人「大橋図書館」を開設して隆盛を極めた。「大橋図書館」は「三康図書館」として現存し、現在では「博文館」は「博文館新社」として甦り、ヒット商品であった日記帖の出版社として存続している。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十五年(2013年)八月作成