『日蓮上人』(にちれんしょうにん)

    


タイトル:『日蓮上人』(にちれんしょうにん)

著者:熊田葦城

出版書写事項:明治四十四年(1911年)十一月七日印刷
       明治四十四年(1911年)十一月十日発行

発行者:川嶋鍖三郎

印刷者:中村政雄

印刷所:報文社

発行所:報知社

形態:全一冊(A6版)

目録番号:soka-0020005



日蓮上人』の解説

 今回紹介する『日蓮上人』は、熊田葦城(くまだいじょう・文久二年・1862~昭和15年・1940)により明治四十四年(1911年)の「報知新聞」に連載され、報知社より明治四十四年十一月十日に発行された。

 この書籍の最初には、南部實長宅にて京師の大蔵親安が描いた大聖人の肖像画を南画家の谷文晃(たにぶんちょう・宝暦十三年・1763~天保十一年・1841)が模写していたものを身延に収めた大聖人の尊像写真が掲載されている。

 目次には、日蓮大聖人の御事績を135項目に詳細して、その年譜の後に「日影蓮香」として47項目の大聖人に関連する土地や寺社等を説明し、最後には附録として「身延久遠寺監督 武田宣明師来状」として熊田に宛てた手紙全文が掲載されている。

 室町期に成立した『元祖化導記』や江戸期に成立した『本化高祖年譜』などは記録的な要素が強く活字だけで表現され、江戸期後半に成立した『日蓮上人一代圖會』や明治期前半の『日蓮上人御一代記』などは浮世絵を駆使して物語風に大聖人のご事績を表現していることが特徴的であったが、明治期後半になると書籍に最先端の写真が掲載され始めた。

 (八五)「本尊の建立」の項目には、佐渡で認められ明治八年(1875年)の身延大火で焼失したとされる「始顕の大御本尊」の写真も掲載され、不思議なことに「東京市神田區三河町一丁目五番地村上國信氏の手に帰し今は芝區二本榎一丁目五十二番地川合芳次郎氏之れを保護す」と明治四十四年(1911年)の時点で説明されている。

 また、(一三〇)「戒壇の霊場」の項目には、富士大石寺に宝蔵されている「本門戒壇の大御本尊」の写真を掲載し、この写真は至近距離から撮影されたもので、縦10cm3mm、横7cm3mmの大きさで掲載されている。

 その写真の下の解説文には、「これ日蓮上人より日興上人に傳へられたる本門戒壇の大本尊なり丈四尺六寸餘幅二尺一寸餘の楠材にして日蓮上人の眞筆に係り日法上人之を彫刻す今富士大石寺に寶藏す由井一乗居士特に寄贈せらる」とあり、この写真解説文によれば、「由井一乗」という人物が、大御本尊様の写真を熊田葦城に渡したということなのである。

 著者の熊田葦城は、備後国の出身で、名を宗次郎と呼び、函舘の新聞社員から明治二十八年の頃の報知新聞編輯長に転じ、藝陽の新聞社に入ったことはわかっている。徳富蘇峰(とくとみそほう・文久三年・1863~昭和三十二年・1957)とも交わり、『少女美談』『日本史蹟』『幕府瓦解史』『江戸懐古録』などの著書がある。熊田は浄土宗の信者であったが、この書籍を著したことが縁となり、後に日蓮正宗に入信し、現在の品川区にある妙光寺の門徒になった。

 熊田は、日蓮正宗機関誌『白蓮華』(大正四年十一月七日発行)に「余の改宗せし顛末」と題し、入信の経緯を書いている。その中に、「由井幸吉君は日蓮宗の碩学にして、最も余の記事を歓迎せられし一人なり」と記している。この「日蓮宗の碩学」とは、身延派などを指す「日蓮宗」ではなく、「日蓮大聖人を宗祖とする正統な」という意味での「日蓮宗」であると推察される。

 由井幸吉こと由井一乗は日蓮正宗の門徒で、熊田は大正二年五月に由井幸吉の折伏により入信したとある。大正十五年一月号の『大日蓮』の名刺広告には大講頭の肩書があり、由井が写真を提供したにもかかわらず日蓮正宗内では何の処罰もされなかったことがわかる。

 驚くことに、由井一乗は、大正元年(1912年)十月、東京独一本門講が出版した写真集『総本山大石寺真景』に、「御堂の寶殿・戒壇の大御本尊御開扉の霊況」と題する御影堂の「戒壇の大本尊」御開扉の写真を載せており、自ら大正四年(1915年)十一月に由井幸吉の名前で「日蓮大聖人」という本も出版して、その中で戒壇の大本尊の写真を載せているのである。

 写真をよく見ると、左右に一本ずつのロウソクが点燈し燈明が灯っている。在家の由井が勝手に宝蔵に入ることも不可能であり、この時代の撮影技術では大きな固定したライトが必要であり、つまり、これらの行動は法主および幹部クラスの許可があったものと結論せざるを得ない。

 そして、不思議なことに、附録には「身延久遠寺監督 武田宣明師来状」として権僧正の武田宣明が熊田に宛てた手紙全文が掲載され、その手紙の内容は「単に興門派の所伝にのみ拠りて日蓮宗の史実を参案とし給はざりしは甚だ遺憾に存候」として、抗議をしたものが掲載されているのである。

 また、著者の熊田葦城は「日興上人の身延離山に関して二説あり、余は自から信ずる所ありて甲説を採る、身延久遠寺監督武田宣明君乃ち乙説を挙げて辨明を試みらる、(中略)互に之れを固執して譲らざるは、即ち合同の成らざる所以、余は切に其史實を一定せんことを望む」と記載した。

 明治三十四年ごろから『高祖遺文録』で紹介した田中智學(文久元年・1861~昭和十六年・1939)などが推進した日蓮宗統合(合同)の運動が反映された文章であることもわかる。

 その後の大正三年、日蓮正宗・日蓮宗・顕本法華宗・本門宗・法華宗・本門法華宗・本妙法華宗・不受不施派・不受不施興門派の門下9宗派の管長の連名で「立正大師」の謚号宣下の請願へと繋がる運動である。

 これらの事実から推して、一閻浮提総与の大御本尊様の写真が流出したことについて、当時の日蓮正宗の僧侶の面々は何の躊躇も感じていなかったことが判明するのである。

 日興上人の遺言に、「此の御筆の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず正像末に未だ弘通せざる本尊なり、然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り弟子等にも付嘱すべからず、同一所に安置し奉り六人一同に守護し奉る可し、是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し」(富士一跡門徒存知の事)とある。

 本化の菩薩が到来する日まで固く守護するように誡められている大御本尊を、写真に撮って世間に公開するとは、日興上人の末流としての自覚に欠けるものであると私こと樹冠人は思うのである。

 私こと樹冠人が常々思うことは、由井一乗が総講頭に任命されたのが昭和四年五月、創価学会の牧口常三郎初代会長と戸田城聖第二代会長の入信は前年の昭和三年六月頃であり、戸田先生がしばしば語ったとされる、「我々は謗法の真っ只中に敵前上陸した」との発言が、この本を見るたびにひしひしと迫ってくるのである。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   令和二年(2020年)七月作成