『古事談』(こじだん)

    


タイトル:『古事談』(こじだん)

著者:源顕兼

出版書写事項:明治十四年・明治十五年(1881年・1882年)出版御届

形態:六巻 全三冊 和装小本(B6活版)

出版人:近藤瓶城

発兌出版所:近藤活版所

東京発兌:丸家善七 吉川半七

取次人:志賀二郎

目録番号:nihon-0030008



古事談』の解説

 『古事談(こじだん)』は、平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した村上源氏出身の源顕兼(みなもとのあきかね・永暦元年・1160~建保三年・1215)が編纂した故事に関する説話集である。奈良時代から平安時代中期に至るまでの四百六十二の説話を収め、「王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社佛寺・亭宅諸道」の六巻から構成され、巻ごとに年代順で配列されている。『古事談』の内容は『小右記』『扶桑略記』『中外抄』『富家語』などからの引用が多いようで、天皇貴族社会の逸話・有職故実・伝承などからの資料をまとめ、正史に盛り込むことができなかった天皇・貴族・僧侶などに関しての珍談秘事を暴く暴露本の体裁ともなっている。

 源顕兼は、父の後を継ぎ刑部卿を務めるが、藤原定家(ふじわらのさだいえ・応保二年・1162~仁治二年・1241)や栄西(えいさい・永治元年・1141~建保三年・1215)などの文化人とも親交を深め、有職故実にも精通していた貴族であった。父の譲りにより刑部卿従三位となるが、建暦年中に出家し『中外抄』などを書写し、特に藤原定家の『明月記』には「家の秘事を披露する」などと明記してある。和歌においては「石清水若宮歌合」に参加し、後鳥羽院の和歌試「十首歌会」にも詠進している。出家した後に、故事に関する説話を集めて部類分けした『古事談』を編纂し、『新勅撰集』にも入集した。

 今回紹介する『古事談』は、『史籍集覧(しせきしゅうらん)』に収められている『古事談』であるが、『史籍集覧』は、近藤瓶城(こんどうへいじょう・天保三年・1832~明治三十四年・1901)が編纂した江戸時代までの日本の史籍をまとめた叢書である。『梁塵秘抄』で解説した塙保己一が編纂した『群書類従』や、その門弟が継承した『続群書類従』の後を請けて、古典保存を目的にして『史籍集覧』『続史籍集覧』を編纂刊行した。室町時代以降の合戦記を多く収録していることが優れている点で、武家の興亡を研究するためにはこの遺業を通過する必要がある。

 近藤瓶城は、幕末明治時代を生きた漢学者で、三河国岡崎藩の儒学者である。明治維新後には藩校允文館の学監に就任して、『群書類従』に未収録の史籍の刊行をめざし『史籍集覧』『続史籍集覧』を編纂し、東京に近藤活版所(のちに近藤出版部)を創設した。

 特に、『古事談』には「稱德天皇と弓削道鏡」「宇多天皇と京極御息所」などの暴露説話が含まれていることは有名である。また、後に成立する『宇治拾遺物語』などの説話集にも多大な影響を及ぼしたと思われる。

【稱德天皇と弓削道鏡】について

 在位当時には高野天皇と呼ばれた第四十八代の稱德天皇(しょうとく・養老二年・718年~神護景雲四年・770年)は、第四十六代の孝謙天皇が重祚したものであるが、父は聖武天皇で母は藤原氏出身の光明子こと光明皇太后であった。また、日本史上唯一の内親王の立太子が行われ、天武系からの最後の天皇でもあり、江戸時代初期に即位した第百九代の明正天皇が即位するまで約850年もの間、女帝は即位しなかった。

 孝謙天皇時代には、病気の光明皇太后に仕えることを理由に退位し大炊王こと淳仁天皇に譲位した。しかし、孝謙天皇は上皇として権勢を振るい、藤原仲麻呂に「藤原恵美押勝」の名を与え重用して、藤原恵美押勝と称した仲麻呂は官庁を唐風に改名するなど権勢を振るった。また、光明皇太后が淳仁天皇の父である舎人親王に尊号を贈る問題でも実権を誇示し、最終的には「崇道尽敬皇帝」の尊号を贈るが、孝謙上皇の影響力の大きさを示すことになった。

 光明皇太后が崩御すると、孝謙上皇と仲麻呂・淳仁天皇の関係は微妙なものとなり、病に伏せった孝謙上皇は、看病に当たった弓削連からの出身で弓削道鏡(ゆげのどうきょう)とも呼ばれた法相宗の道鏡(どうきょう・文武四年・700~宝亀三年・772)を寵愛するようになった。また、遣唐使で有名な吉備真備(きびのまきび・持統九年・695~宝亀六年・775)と共に勢力を拡大した。学者であった真備は、唐から色々なものを移入したが、現在では「陰陽道の祖」「兵法の祖」として崇拝されている。

 道鏡については、『古事談』で「天皇と姦通していたとする説」「道鏡が皇位を狙っていたという説」が記載されたが、道鏡が政治抗争に敗れ左遷された時にも僧侶の身分は確保されており、「姦通」の事実が存在していれば僧籍の剥奪が通常であるので疑わしい説である。

 また、「道鏡は天智天皇の皇子の志貴皇子の子とする説」の伝承から、稱德天皇が天智系の継承を考えて道鏡の天皇即位を希望した可能性が高いが、皇位を狙っていた具体的な証拠も乏しい。現在では、稱德天皇の崩御により天武系の皇統が断絶し天智系が復活したことから、天智系の皇位継承を正当化するために稱德天皇と道鏡を不当に貶めた可能性が高いと考えられている。

【宇多天皇と京極御息所】

 ある日、宇多天皇が京極御息所(きょうごくみやすどころ)と河原院で過ごしていると、源融(みなもとのとおる)の霊が現われて「御息所がほしい」と言った。天皇は即座に断ったが、御息所は死んだようになってしまった。そこで、天皇は急ぎ内裏に戻り、ある僧に祈祷させると御息所は生き返ったのである。この逸話と同時代を生きた有名人物たちを紹介しておく。

 宇多天皇(うだ・貞観九年・867~承平元年・931)は、平安時代前期の第五十八代の光孝天皇(こうこう・天長七年・830~仁和三年・887)の第七皇子で、母は桓武天皇の皇子である仲野親王の娘である皇太后班子女王である。臣籍降下されて源定省と称したが、皇族に復帰して親王宣下を受け第五十九代の天皇に即位した異例の天皇である。そして、実力者の関白藤原基経の後ろ盾により宇多源氏の祖先にもなった天皇でもある。

 京極御息所こと藤原褒子(ふじわらのほうし・よしこ)は、 宇多天皇が法皇となってからの妃で藤原北家の藤原時平の娘である。また、富小路御息所・六條御息所とも呼ばれた。実は、藤原褒子は宇多院の息子である醍醐天皇の女御になる予定であったが、宇多院が横取りして自分の妻にしたのである。そして、御息所の三人の皇子は宇多天皇が出家後に法皇となった時の誕生のため、表向きは醍醐天皇の子とされた。また、藤原褒子は「京極御息所歌合」を催したことでも有名である。歌合については、宇多帝や醍醐帝を中心とした内裏や後宮の晴儀の歌合など朝廷主導の晴儀歌合が中心であったが、それに対抗した摂関大臣家が主催する歌合も頻繁に催され、その頃の代表的な歌合に「京極御息所歌合」も催された。

 藤原時平(ふじわらのときひら・貞観十三年・871~延喜九年・909)は、『菅家文草・後集』で解説したように、平安時代前期の公卿で、摂政関白太政大臣であった藤原北家の藤原基経の長男である。父の基経の死の時点ではまだ若年であったため、宇多天皇は親政を始め、皇親である源氏や菅家の菅原道真を登用した。そして、醍醐天皇の時代になると菅原道真と共に左右大臣に昇格し、道真を讒言して大宰府へ左遷させたことは有名であった。結局、時平の早すぎる死は怨霊となった菅原道真の祟りと噂された。

 河原左大臣と呼ばれた源融(みなもとのとおる・弘仁十三年・822~寛平七年・895)は、初めて源姓を与えた嵯峨天皇(さが・延暦五年・786~承和九年・842)の十二男で大納言・左大臣などを歴任した嵯峨源氏融流初代である。また、源融は紫式部の『源氏物語』の主人公である光源氏の実在モデルの一人ともいわれている。そして、陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六條河原院(現在の枳殻邸こと渉成園は六條河原院の一部である)を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。なお、有名な別邸としては隠棲した栖霞観故地には「嵯峨釈迦堂清凉寺」が、別荘旧宇治殿址には「宇治平等院」が現存している。

 六條河原院(ろくじょうかわらのいん)は、平安時代前期の京都六條に造営された河原左大臣こと源融の邸宅である。南は六條大路・北は六條坊門小路・東は東京極大路・西は萬里小路に囲まれた四町以上の広大な敷地に、「陸奥国塩竈を借景して庭園を作り、尼崎から毎月三十石の汐を汲んで運び塩焼きを楽しんだ」という逸話が伝承されている。また、源氏物語の乙女の巻には、「六條院は四季の町に分かれ、春に紫の上、夏は花散里そのほかの人々、秋は斎宮女御の宿下がりの町である秋好中宮、冬には明石の上が住まいしていた。」とある。

 そして、融の死後には子の河原大納言こと源昇(みなもとののぼる・嘉祥元年・848~延喜十八年・918)が六條河原院を相続したが、宇多天皇に献上して仙洞御所となった。『古事談』に記載された逸話もこの時代と思われる。その後、数度の火災で荒廃したが、江戸時代には跡地の一部に「枳殻邸こと渉成園」が作られ、現在では東本願寺の別院として現存している。『源氏物語』の注釈書である『源氏物語湖月抄』で解説した『河海抄』には、光源氏の邸宅として登場した「六條院」は「六條河原院」であると記載してある。また、「枳殻邸こと渉成園」は江戸時代末期には頼山陽が著述した『渉成園記並十三景詠』でも名園として紹介され有名になった。






続古事談』の解説

 『続古事談(ぞくこじだん)』は、鎌倉時代初期に成立した作者不詳の説話集である。跋文によれば建保七年(1219年)の成立とあり、同年は承久と改元されているので「承久の乱(1221年)」で有名な後鳥羽上皇(ごとばじょうこう・治承四年・1180~延応元年・1239)の時代に成立したことになる。

 『続古事談』は、源顕兼(みなもとのあきかね・永暦元年・1160~建保三年・1215)が編纂した『古事談』を模範にして百八十五話を収録しているが、各巻の構成は「王道后宮・臣節・(欠巻)・神社佛寺・諸道・漢朝」で第三巻は欠巻となっている。

 今回紹介する『続古事談』は『梁塵秘抄』『江談抄』で解説した塙保己一(はなわほきいち・延享三年・1746~文政四年・1821)が編纂した『羣書類従』に収められたものであるが、『古事談』と同じ構成の全六巻であれば現存本は「巻三」を欠いている。『古事談』では、「王道后宮・臣節・僧行・勇士・神社佛寺・亭宅諸道」の六巻から構成されているので、欠巻になっている部分は、「僧行・勇士」であったと想像できる。

 また、『古事談』との違いとしては中国古典籍から引用された「漢朝巻」が追記されている点で、儒教的訓話が豊富に盛り込まれている。その傾向から「承久の乱」を勃発させ隠岐に流された「後鳥羽上皇への諫言が込められている」との説が有力である。

 後鳥羽上皇は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第八十二代の天皇である。源平興亡の忙しい時代を生きた天皇で、壇ノ浦の戦いで平家滅亡の折、宝剣が安徳天皇と共に海中に沈んだ事件で、「三種の神器」が揃わぬまま即位した天皇でもあった。なお、天皇家の紋章である「菊花紋章」を固定化した天皇でもあった。

 そして、後鳥羽院は政治面での活躍はあまり目立つものはないが、歌人として日本の文学史上に数々の功績を遺している。鎌倉期に入って譲位した後鳥羽院は、当時の歌壇で隆盛していた藤原北家の藤原定家(ふじわらのさだいえ・応保二年・1162~仁治二年・1241)の歌風に魅了されて、式子内親王・九条良経・藤原俊成・藤原家隆・慈円・寂蓮などを重用することになる。また、『方丈記』で有名な鴨長明(かものちょうめい・久寿二年・1155~建保四年・1216)などの院近臣を育て、歴史上にその名を刻印せしめた。つまり、後鳥羽院は、新人発掘の天才ともいえる活躍をしたのである。

 譲位してからの後鳥羽院は、戦乱続きの世の中から逃避するかのように、和歌に没頭した。和歌所を再興して歌合を主宰し、新進気鋭の新人育成に力を注いだ。藤原定家が遺した『明月記』などの記録によれば、『新古今和歌集』については後鳥羽院自ら撰歌・配列に関って、撰者のひとりでもあったことが判明している。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)三月作成