『靖献遺言』(せいけんいげん)

    


タイトル:『靖献遺言』(せいけんいげん)

編輯者:浅見正安(浅見絅斎)

出版書写事項:明治九年二月十日  (1876年)版権免許
       明治十三年九月廿五日(1880年)再版御届
       明治十三年十月   (1880年)刻成五刻

形態:八巻全三冊 和装中本(B6版)

出版人:京都 風月庄左衛門

目録番号:win-0090001



靖献遺言』の解説

 『靖献遺言』(せいけんいげん)は、浅見正安こと浅見絅斎(あさみけいさい・承応元年・1652年~正徳元年・1712)が中国の楚屈平の「離騒懐沙賦」、諸葛孔明の「出師表」、陶潜の「讀史述夷齋章」、顔真卿の「移蔡帖」、文天祥の「衣帯中贊」、謝枋得の「初到建寧賦詩」、劉因の「燕歌行」、方孝孺の「絶命辭」の八人の遺言とも云える題材を提示して、自分の考えである尊王思想を宣揚した書籍である。

 浅見絅斎は、近江国に生まれた江戸時代前期の「崎門三傑」の一人に数えられた儒学者であるが、当初は医業を営んでいた。後に、山崎闇斎(やまざきあんさい・元和四年・1618~天和二年・1682)に師事したが、闇斎の「垂加神道」に従わず破門された。しかし、闇斎の死後は香を焚いて謝罪し、闇斎の「垂加神道」を進化させた「神道」を宣揚するに至った。また、徹底した尊王賤覇思想により絅斎は関東の地を踏まず、諸侯の招聘をも拒否したと伝わっている。

 『白鹿洞学規集註』で紹介した山崎闇斎(やまざきあんさい・元和四年・1618~天和二年・1682)は、江戸時代前期の儒学者で神道家でもある。闇斎は京都で生まれ、比叡山に入れられた後、妙心寺の湘南宗化(しょうなんそうけ・生年不明~寛永十四年・1637)の弟子となる。その後、師匠と共に闇斎は土佐国の吸江寺に移り、土佐南学派の谷時中(たにじちゅう・慶長三年・1598~慶安二年・1650)から朱子学を学び、土佐藩家老の野中兼山(のなかけんざん・元和元年・1615~寛文三年・1664)らとの交わりで、朱子学への思想を深め還俗して儒学者となった。

 中国に於ける忠義の定義は、「正統な王朝に忠義を尽くす」ことが伝統的な考えであった。そして、正統な王朝に敵対する勢力に対しては徹底抗戦の姿勢を貫くことが善であると考えられた。まさしく、その忠義を宣揚した八人が魂を込め謳い上げた人生での結論とも云える遺言の文章を提示して、絅斎の主張を『靖献遺言』に注入したのである。

 江戸時代初期の幕府体制が安定しない時期に、尊王を掲げ、征夷大将軍の位を与えられた覇者の徳川家を批判しているようにも思える『靖献遺言』である。天子を尊び覇者(武家幕府)を賤しむ「尊王賤覇(そんのうせんぱ)思想」の魁となった『靖献遺言』は、江戸幕末には勤王の志士たちの必読の一書となり、明治維新の尊王思想教育に貢献した。また、尊王攘夷を訓育されていた第二次世界大戦中の神風特攻隊の隊員の人気書籍の一つでもあったと伝わっている。


 「松下村塾 関連目録」でも紹介した吉田松陰(よしたしょういん・文政十三年・1830~安政六年・1859)を初めとして松下村塾生も盛んに読んだ『靖献遺言』の内容を各巻ごとに纏め、維新へと駆り立てた息吹を味わってみよう。

巻之一 「離騒懐沙賦」楚屈平

「浩浩沅湘分流汨兮脩路幽蔽道遠忽兮曾傷爰哀永嘆喟兮世溷濁莫吾知人心不可謂兮懐質抱情独無匹兮伯楽既没驥焉程兮民生稟命各有所錯兮定心廣志余何畏懼兮知死不可譲願勿愛兮明告君子吾将以為類兮」

 春秋戦国時代の楚国の屈原こと楚屈平(そくつへい・前343年~前278年)は、王族出身の名門の生まれである。そして、吉田松陰の『照顔録 附坐獄日録』で解説したように高潔に生きて入水自殺した忠義の詩人でもある。懐王の信任を受けて左徒の官に就任した屈平の才能を嫉んだ上官太夫が、懐王に「屈平は功を誇り、驕っている」と讒言した。懐王は怒って屈平を遠ざける。そして、懐王に替わり譲王が即位した時も子蘭が屈平を嫉み、譲王に讒言されて、再び江南に流されたのである。

 また、屈平は「楚辞」の創始者としても有名であり、忠義の人であった。「楚辞」とは、中国の戦国時代の楚国で謳われた詩の様式である。特に、語調を整える「兮(漢音ではケイ、呉音ではゲ)」を多用することが特徴である。「楚辞」は、「詩経」と共に後世の漢詩に影響を与えた源流の一つである。懐王時代に讒言された折に創作したのが「離騒賦」で、「離騒」とは「憂えに遭う」との意味であるが、日本には「終りなき憂愁の詩」と訳した天才詩人も存在している。また、譲王時代に讒言された折に創作したのが「懐沙賦」で、「懐沙」とは「沙石を懐いて投身する」との意味で、創作後に入水自殺したのである。

 巻之一の「離騒懐沙賦」の巻頭には楚屈平の略歴を記載し、「漁父の辭曰く」「朱子曰く」「司馬光曰く」「また曰く荀淑梁氏の事を用ひるの日に正言して」「黄幹曰く」と過去の偉人の発言を例示して、「右、類に因て後に付録す。後、皆此に傚(なら)へ。」と締め括った。

 死ぬ前に遺した「離騒懐沙賦」は、まさしく屈原の遺言である。王に遠ざけられ左遷され国を憂いながら自殺した屈平は、幕末の志士たちに大きな影響を与えた。

 例えば、『南洲翁謫所逸話』で紹介したように西郷隆盛(さいごうたかもり・文政十年・1828~明治十年・1877)は徳之島と沖永良部島に遠流された。沖永良部島の折に、隆盛は屈原の左遷と島流しの身の上を重ね合わせ詩を詠った。

「雨斜風を帯びて敗紗を叩き 子規血に啼き冤を訴えて譁し 今宵離騒の賦を吟唱すれば 南竄の愁懐百倍加わる」

(雨が横風を帯びて薄い破れ布を叩いて降り込み、ホトトギスが血を吐くような声で啼いて無実の罪を訴えているかのようである、こんな今宵に屈原の離騒賦を吟唱すれば、南の果ての小島に流されている悲しい思いが百倍も加わって来る)

 また、『東行先生遺文』で紹介したように長州藩の高杉晋作(たかすぎしんさく・天保十年・1839~慶應三年・1867)も投獄された時に菅公と屈平の人生を思い浮かべて詩を詠んだ。

「君不見死爲忠魂菅相公 靈魂尚存天拜峰 又不見懷石投流楚屈平 至今人悲汨羅江 自古讒間害忠節 忠臣思君不懷躬 我亦貶謫幽囚士 思起二公涙沾胸 休恨空爲讒間死 自有後世議論公」

(君見ずや死して忠魂と爲る菅相公 靈魂尚存す天拜峰 又た見ずや石を懷きて流れに投ず楚の屈平 今に至るも人は悲しむ汨羅江古へ 自り讒間忠節を害ふも 忠臣君を思ひて躬を懷はず 我も亦た貶謫幽囚の士 二公を思ひ起こして涙胸を沾す 恨むを休めよ空しく讒間の爲に死するを 自ら後世議論の公なる有らん)


巻之二 「出師表」漢丞相武郷侯諸葛亮

 『古文真寶』でも紹介した諸葛亮こと諸葛孔明(181年~234年)についは、陳寿(ちんじゅ・233年~297年)が編纂した歴史書「三国志」の「蜀志 諸葛亮伝」に詳しく表記してあるが、蜀漢時代の政治家・発明家・丞相で、字は孔明、自らを伏龍・臥龍とも呼んだ逸材である。「三国志」では劉備玄徳(りゅうびげんとく・161~223)の創業を助け蜀漢建設の立役者となり、跡継ぎの劉禅を補佐して北伐に際して上奏した「出師表」はあまりにも有名である。また、偽作の議論が絶えない「後出師表」も『靖献遺言』では堂々と記載されている。

 「出師の表」は「すいしのひょう」と読む。「師」とは軍隊のことで、例えば、日本では京都第16師団(現在の京都師団街道に隣接した警察学校地点に駐屯)など戦時中の軍隊の呼び名にも使われた。「出」は「~を出す。」との意味の場合は「出納帳」などと同様に「すい」と読む。「表」は上表文(じょうひょうぶん・「上」は「たてまつる」との意味)のことで、「出師の表」で「軍隊を出すにあたって、そのことを皇帝(帝王)に申し上げる文章」の意味となる。ちなみに、陳寿が編纂した「三国志 蜀志 諸葛亮伝」「諸葛亮集」や黄堅が編纂した「古文真寶後集」などには全文が収録されているので、諸葛亮の真作であることを疑う人はいないのが現状である。

 「後出師の表」については、陳寿が著した「三国志」には収録されていない。同様に、彼が編纂した「諸葛亮集」(原典は今日まで所在不明で、清国の張澍が編纂したものが現存)にも収録されていない。ただし、「三国志」に註を加えた裴松之(はいしょうし・372年~451年)が「漢晋春秋」の文を引いて全文を掲載し、呉の張儼(ちょうげん)の「黙記」に見えると注記している。この「後出師の表」の真偽については現在まで判定不能である。

 浅見絅斎にとって正統な王朝である漢王朝の皇族である劉秀が、王莽(おうもう・前45~23)に滅ぼされた前漢を再興して後漢を立て光武帝となった。しかし、漢王朝最後の皇帝となる第十四代の献帝(けんてい・181~234)は魏国の曹操の傀儡政権で、権力は無いも同然であった。そして、曹操の子である曹丕により献帝は禅譲を強要され後漢は滅びたのである。その後、劉備が蜀漢(漢・季漢)の皇帝に即位し昭烈帝を名のり三国時代に入ったのである。

 実は、献帝こと劉協は殺害されたとの噂が流れていたが魏によって「山陽公」に封じられ、その死後は孫の劉康が跡を継いで生き残ったのである。ここで樹冠人に疑問が発生した。つまり、朱子学(朱子は蜀漢の正統性を宣揚したが?)においては「正統な王朝の末裔が存続している以上、それを退けて王朝建国はありえない」はずである。正統な跡継ぎが存在していたことを浅見絅斎は知らなかったのであろうか?漢籍に通達している絅斎であるので知っていたはずである。にもかかわらず、正統でない劉一族の劉備が建国した蜀漢の丞相を務めた諸葛亮を讃えているのである。

 本来は懐帝こと劉禅と諸葛亮は「山陽公」となった劉協を盛り立て漢室復権に死力すべきだったと思うのであるが?結局、魏を滅ぼした西晋でも正統な劉一族の「山陽公」の待遇は存続したが、劉康の孫である劉秋の代に直系の子孫は絶え漢室は滅亡し、蜀漢の愚鈍な懐帝こと劉禅も「安楽公」の憂き目に遭い蜀漢も滅亡した。


巻之三 「讀史述夷齋章」晋處士陶潜

「二子譲國相将海隅天人革命絶景窮居采薇高歌慨想黄虞 貞風凌俗爰感懦夫」

 『古文真寶』でも紹介した「帰去来辞」で有名な陶潜こと陶淵明(とうえんめい・365年~427年)は、中国の理想郷を指す「桃源郷」の話を題材にした散文「桃花源記」を著したことで有名である。この「桃源郷」は秦末の戦乱から逃れて移住した人々が建設した桃の花香る里村のことで、「隠遁思想」や「仙人思想」を生み出した理想郷である。陶淵明は六朝時代の詩人であるが、晋国時代の鎮軍将軍である劉裕(りゅうゆう・363~422)に参軍として仕えた。劉裕は南朝の宋(劉宋)を建国した高祖武帝である。淵明は劉裕から仕えるように誘われたが、淵明は正統な王朝が晋であり、劉宋王朝を認めなかったので拒否した。

 淵明の遺言となった「読史述」の中に「夷斎」という章がある。前述の「二子」とは古代中国の殷国時代の「伯夷と叔斎」のことで孤竹国の王子のことである。長男の伯夷は父親から三男の叔斎に位を譲ることを伝えられていたので、遺言に従って叔斎に王位を継がせようとしたが、叔斎は兄を差し置いて位に就くことを拒否し兄に位を継がそうとした。それから、伯夷は国を捨てて他国に逃れ、叔斎も位につかずに兄を追ったのであった。

 その後、二人は文王に仕えようとするが、文王が死に息子の武王が殷の紂王を討とうとする革命を知る。伯夷と叔斎は殷の紂王が正統な支配者であると武王を制止したが受け入れられず、二人は「周の穀物を食べてはならない」と考え、山に隠れ薇を食べ、黄虞を偲んで歌っていた。ある者が「今は全土が周の領土なのだから、薇も周のものだぞ」と言ったことにより、二人は薇も食べられなくなり餓死したのであった。淵明は自分を夷斎に重ね合わせ、劉宋王朝を認めない拒否する気持ちを詩に込めたのである。

 なお、徳川光圀(とくがわみつくに・寛永五年・1628~元禄十三年・1701)は、少年時代に『史記』「伯夷列伝」に感銘を受け、自分と兄の松平頼重との関係に重ね合わせた。光圀はそれまでの荒れた生活を改め学問に精進して、『大日本史』の編纂へと繋がったのである。


巻之四 「移蔡帖」唐太子太師顔真卿

 顔真卿(がんしんけい・709年~785年)は唐代の能書家として有名である。「書聖」と呼ばれた王羲之(おうぎし・303年~361年)と共に、書道界では「二大宗師」と呼ばれている。

 顔真卿は玄宗皇帝(げんそう・685年~762年)の時代の逸材で、安禄山(あんろくざん・705年~757年)が反乱を起こした時は平原の太守であった。城壁を修理して戦いに備え反乱軍を撃退したが、反乱軍鎮圧後も治安が安定せず、国内の要所に節度使を置くこととなり、その結果、節度使の李希烈(りきれつ・不詳~786年)が反乱を起こして楚国皇帝を名乗ってしまった。

 そこで、宰相は気に入らない剛直な顔真卿に説得の役目を命ずることで顔真卿を亡き者にしようとする策謀が行われ、顔真卿は君命であるので拒否すべきではないと思い、李希烈と対面したが、李希烈は顔真卿を手元に留め帰国させなかった。そうこうするうちに、顔真卿を利用して唐の朝廷に仕官しようという者が出てきたので、顔真卿を本拠地である蔡に移すことになった。その蔡の地で、彼の遺言となった「移蔡帖」を書いたのである。

「移蔡帖」

「貞元元年正月五日。眞卿自汝移蔡。天也。天之昭明。其可誣乎。有唐之德。則不朽耳。十九日書。」

(貞元元年正月五日、眞卿汝より蔡に移る。天なり。天の昭明。其れ誣ふ可けんや。有唐の德。則ち朽ちざるのみ。十九日書す。)

 そして、『西郷南洲先生遺訓』の「征韓論」でも紹介した西郷南洲こと西郷隆盛(文政十年・1827~明治十年・1877)は、遣韓使節の命令を受けたときに、顔真卿と自らの境遇を重ねて以下の漢詩を遺した。

「酷吏去来秋気清 鶏林城畔逐涼行 須比蘇武歳寒操 応擬真卿身後名 欲告不言遺子訓 雖離難忘旧朋盟 胡天紅葉凋零日 遥拝雲房霜剣横」

(酷吏去り来って秋気清く 鶏林城畔涼を逐いて行く 須く比すべし蘇武歳寒の操 応に擬すべし真卿身後の名 告げんと欲して言わず遺子の訓 離ると雖も忘れ難し旧朋の盟 胡天紅葉凋零の日 遥かに雲房を拝して霜剣を横たう)

 また、巻之四には安禄山の反乱においての張巡(ちょうじゅん・709年~757年)の節義についての付録が添付されている。

 当時の張巡は雍丘という町の守備隊長で、数万にも及ぶ反乱軍に城を包囲され、籠城軍の食糧が皆無となってしまった。そのため張巡は自分の妾を差し出して部下に食べさせたのであった。その後、四百人ほどの守備隊以外の城内の人間を全部食べつくし、守備隊は反乱軍と戦って全滅したのである。かつての中国の戦乱においては食糧が無くなると人間を食べることは常識であったようである。また、平和時でも人肉は市場で売られていた記録も残っている。

 この逸話を付録した浅見絅斎の真意は不明であるが、現代の日本人にとっては残酷すぎて不気味な感じである。『靖献遺言』の愛読者であった勤皇の志士たちにも、張巡の逸話は不人気であったようで、顔真卿を絶賛はしたがこの逸話を言い伝えることは無かった。


巻之五 「衣帯中贊」宋少保樞密使信國公文天祥

 吉田松陰の『照顔録 附坐獄日録』でも紹介した文天祥(ぶんてんしょう・1236年~1282年)は、張世傑・陸秀夫と並ぶ南宋の三忠臣で「亡宋の三傑」と呼ばれた逸材の一人であった。現在の江西省吉安市にあたる吉州廬陵の出身で、科挙において首席で合格した逸材でもあり、南宋時代から大元時代を生きた。滅亡へと向かう南宋の臣下として戦い、南宋が滅びた後は大元に捕らえられ、名声が轟いていたので何度も大元に仕えるように勧誘されたが、忠節を守るために望んで刑死した。

 当時の状況は、北方に位置していた金国は既に大元国(モンゴル帝国)によって滅ぼされ、南宋国は強大な大元軍の侵攻に耐えていた時である。大元軍が四川に侵攻してきた時(文天祥が任官して間もなくの頃)には遷都問題が勃発し、彼は反対意見を述べたが、遷都が決定され免官された。その後復職したが、「蟋蟀(コオロギ)宰相」と呼ばれた賈似道(かじどう・1213年~1275年)とは意見がぶつかり合い下野し、大元軍の攻撃が激しくなると復職して転戦した。

 その後、文天祥は右丞相兼枢密使となり、大元国との和睦交渉の使者となったが、大元国側のバヤン(伯顔・1236年~1295年)との談判の後に捕縛された。文天祥が捕縛されている間に首都である臨安(現在では杭州)が陥落し、忠臣の張世傑・陸秀夫は幼帝を奉じて抵抗を続け、文天祥も大元国から脱出し各地で抵抗を続けたが遂に捕らえられ、大都(現在では北京)へと連行された。

 文天祥は刑死するまで獄中にあり、度々、降伏勧告文書を書くことを求められたが断り続けた。南宋国が滅んだ後にも、その才能を惜しんだクビライ汗(フビライ汗)からも再三に亘り仕官を求められたが拒絶し、獄中で文天祥は有名な「正気歌」を詠んだのである。

「天地有正氣 雜然賦流形 下則為河嶽 上則為日星 於人曰浩然 沛乎塞蒼冥 皇路當清夷 含和吐明庭 時窮節乃見 一一垂丹青」

(天地に正氣有り 雜然として流形を賦す 下っては則ち河嶽と為り 上っては則ち日星と為る 人に於いては浩然と曰う 沛乎として蒼冥に塞つ 皇路清夷に當たれば 和を含んで明庭に吐く 時窮すれば節乃ち見れ 一一丹青に垂れる)

「在齊太史簡 在晉董狐筆 在秦張良椎 在漢蘇武節 為嚴將軍頭 為嵆侍中血 為張睢陽齒 為顏常山舌 或為遼東帽 清操厲氷雪 或為出師表 鬼神泣壯烈 或為渡江楫 慷慨呑胡羯 或為撃賊笏 逆豎頭破裂」

(齊に在っては太史の簡 晉に在っては董狐の筆 秦に在っては張良の椎 漢に在っては蘇武の節 嚴將軍の頭と為り 嵆侍中の血と為り 張雎陽の齒と為り 顏常山の舌と為り 或いは遼東の帽と為り 清操氷雪よりも厲し 或いは出師表と為り 鬼神も壯烈に泣く 或いは江を渡る楫と為り 慷慨胡羯を呑む 或いは賊を撃つ笏と為り 逆豎の頭は破裂す)

「是氣所磅礴 凛烈萬古存 當其貫日月 生死安足論 地維賴以立 天柱賴以尊 三綱實系命 道義為之根」

(是氣の磅礴する所 凛烈として萬古に存す 其の日月を貫くに當たりては 生死安くんぞ論ずるに足らん 地維賴りて以って立ち 天柱賴りて以って尊し 三綱は實に命に系り 道義之を根と為す)

「嗟予遭陽九 隷也實不力 楚囚纓其冠 傳車送窮北 鼎鑊甘如飴 求之不可得 陰房闃鬼火 春院閟天黑 牛麒同一皂 鷄棲鳳凰食 一朝蒙霧露 分作溝中瘠 如此再寒暑 百沴自辟易 嗟哉沮洳場 為我安樂國 豈有他繆巧 陰陽不能賊 顧此耿耿在 仰視浮雲白 悠悠我心悲 蒼天曷有窮 哲人日已遠 典刑在夙昔 風檐展書讀 古道照顏色」

(嗟、予は陽九に遭い 隷は實に不力也り 楚囚其冠を纓び 傳車窮北に送らる 鼎鑊甘きこと飴の如き 之求むるに得べ可らず 陰房に鬼火は闃かに 春の院は天に閟ざして黑し 牛と麒は一皂を同にし 鷄棲で鳳凰は食らう 一朝霧露を蒙らば 溝中の瘠と作らんを分とす 再び寒暑此の如し 百沴自ら辟易す 嗟哉、沮洳の場も 我が安樂の國と為らん 豈に繆巧有らんや 陰陽も賊するあたわず 顧てこの耿耿在り 仰ぎ視て浮雲白ければなり 悠悠として我が心は悲しむ 蒼天曷ぞ窮み有らん 哲人日に己に遠く 典刑は夙昔に在り 風檐に書を展げて讀めば 古の道顏色を照らす)

 クビライ汗も文天祥の刑死には踏み切れず、朝廷でも文天祥の人気は高く、二転三転した後、やむなく文天祥の死刑が決定された。文天祥は捕縛された直後から一貫して死を望んでおり、南方に向かって拝して刑を受けたと伝承されている。クビライ汗は文天祥を「真の男子なり」と称賛し、処刑場跡には後に「文丞相祠」が建てられた。

 浅見絅斎が『靖献遺言』に載せて以降も、文天祥は忠臣の鑑として称賛され、「正気歌」は多くの人に詠み継がれた。特に、幕末の志士たちに愛唱され、水戸勤皇党の藤田東湖や明治維新の精神的支柱であった吉田松陰も「正気歌」を詠み、日露戦争時に「軍神」と呼ばれた広瀬武夫中佐も「正気歌」を詠んで戦った。


巻之六 「初到建寧賦詩」宋江西招諭知信州謝枋得

 『謝選拾遺』でも紹介した謝枋得(しゃぼうとく・1226年~1289年)は、巻之五で紹介した文天祥とは同時代を生きた逸材であった。南宋国の科挙の一次試験において最高成績であったが、皇帝の最終試験では、時の大臣や宦官を非難したことで大幅に順位を下げられた逸話が伝承されている。

 南宋末期の国境守備隊長であった謝枋得は、後に、宰相となる賈似道(かじどう・1213年~1275年)を批判し疎まれて左遷され、最前線で大元軍と戦うが南宋滅亡を見ることになる。

 南宋滅亡後、彼は姓を変えて占いで生計を立てながら門人を抱えたという。そして、大元国からの誘いに対しては「亡国の大夫」であると拒絶するが、大元国からの再三の強要に屈して大都(現在では北京)に赴く、しかし道中から断食を始め大都到着後、壮絶な死を迎える。

 浅見絅斎が『靖献遺言』に載せて以降も、幕末の勤皇の志士たちは「初到建寧賦詩」(初めて建寧に到りて賦する詩)を詩吟にして歌っていたが、実は、遺言ともいえる最期の詩は、大都に赴く前に死を覚悟した時に詠った七言律詩であった。

「雪中松柏愈青青 扶植綱常在此行 天下久無龔勝潔 人間何獨伯夷清 義高便覺生堪捨 禮重方知死甚輕 南八男兒終不屈 皇天上帝眼分明」

(雪中の松柏は愈青青 綱常を扶けて植てるは此の行に在り 天下久しく龔勝の潔なし 人間何ぞ獨り伯夷のみ清からん 義は高く便ち覺ゆ生の捨つるに堪えんと 禮は重く方に知る死の甚だ輕きを 南八は男兒にして終に屈せず 皇天上帝眼は分明)


巻之七 「燕歌行」處士劉因

 大元時代の劉因(りゅういん・1249年~1293年)は、大都(現在では北京)近くの保定容城(現在の河北省容城県)の出身で、諸葛亮こと諸葛孔明(しょかつこうめい・181年~234年)の『子を誡むる書』にある「静以修身」の句を愛し、彼の住居を「静修」と名付けたことから「劉静修」とも呼ばれた。また、「處士」とは民間人を指す言葉である。

『子を誡むる書』(諸葛孔明)

「夫君子之行 静以修身 倹以養徳 非澹泊無以明志 非寧静無以致遠 夫学須静也 才須学也 非学無以広才 非志無以成学 滔慢則不能励精 険躁則不能治性 年与時馳 意与日去 遂成枯落 多不接世 悲窮虜守 将復何及」

(夫れ君子の行は、静を以て身を修め、倹を以て徳を養ふ。澹泊にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、寧静にあらざれば、以て遠きを致すことなし。夫れ学は須く静なるべく、才は須く学ぶべし。学ぶにあらざれば、以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし。滔慢なれば則ち精を励ますこと能はず、険躁なれば則ち性を治むること能はず。年は時と与に馳せ、意は日と与に去り、遂に枯落を成し、多く世に接せず。窮盧を悲しみ守るも、将た復た何ぞ及ばん。)

 劉因が生まれた時代は、南宋も滅亡して大元時代になっていた。大元の世宗は、儒学者として有名であった劉因を賛善大夫として招聘し、一旦は継母が年老いたことを理由に職を辞し、俸給も全く受けとらなかった。つまり、彼は「夷狄」であるモンゴル人の王朝を正統とは認めず、うまく理由をつけて拒絶したのである。

 中国(漢民族社会)の伝統的な考えは、異民族を「夷狄」と表現し、野蛮人として差別してきた。そして、儒教学の特に朱子学では「夷狄」が建国した王朝を正統とは認めなかった。当然、朱子学者の浅見絅斎も「夷狄」の王朝を正統と認めず、仕えなかった劉因を賞賛しているのである。まさに、中国においては明国が崩壊し、「夷狄」であるツングース系の満洲民族が清国を建てた十七世紀後半の時代に、浅見絅斎は『靖献遺言』を書き上げたのである。

「燕歌行」

「薊門悲風来り。易水寒波を生ず。雲物何ぞ色を改むる。游子燕歌を唱ふ。燕歌何の処にか在る。盤欝たる西山の阿。武揚燕の下都。歳晩独り経過す。青丘遥かに相連なり、風雨嵯峨を隳る。七十、斉の都邑。百二、秦の山河、学術の管楽有り、道義に丘軻なし。蚩々たる魚肉の民、誰と与にか干戈を休めん。往時已に此の如し、後来復た如何。地を割く更に石郎曲終て哀思多し。」

※「学術の管楽有り、道義に丘軻なし。」の管楽と丘軻とは、「管とは管仲、楽とは楽毅、丘とは孔子、軻とは孟子」のことである。


巻之八 「絶命辭」明建文帝侍講直文淵閣方孝孺

 方孝孺(ほうこうじゅ・1357年~1402年)は明国初期の儒学者である。大元国を滅ぼして明を建国した朱元璋こと洪武帝(1328年~1398年)は、若き方孝孺を見出して、皇太子を補佐させようとしたが、いったん郷里に帰した。それから十数年後の洪武帝も皇太子も亡くなった後に、孫である朱允炆が即位して建文帝となり、方孝孺は側近として仕えた。

 その後、洪武帝の四男で建文帝の叔父にあたる燕王が反乱を起こし、建文帝を打ち破って即位し永楽帝となった。そして、永楽帝は高名であった方孝孺を呼び出して自分の即位の詔書を書かせようと命令したのである。

 永楽帝は父親の洪武帝からもその才能を愛されていた人物で、非常に優秀な君主であったが、方孝孺は「燕賊簒位」つまり「燕王であった永楽帝は皇帝の位を奪った賊だ」と書いて拒否した。永楽帝は何とかして方孝孺に詔書を書かせようとして「命令をきかなければ一族を殺す」と脅かしたが、方孝孺は拒否し続けた。

 そして、方孝孺の一族など847人とも873人とも言われた人々を彼の目の前で殺したが、方孝孺はなおも拒絶しつづけ、死ぬ前に「絶命辭」を書いて永楽帝を非難した。ついに、方孝孺も磔にされ、刀で口の両側を耳まで切り裂かれ絶命した。

「絶命辭」

「天、乱離を降し、孰かその由を知らん。姦臣、計を得、国を謀り猶を用ふ。忠臣、憤を発し、血涙交々流る。死を以て君に殉ず。抑もまた何をか求めん。嗚呼、哀しいかな、庶はくは、我を尤めざれ。」


【参考】風月庄左衛門について

 風月庄左衛門は、江戸時代の寛永期から明治期まで営業していた京都の大書肆であった「風月堂」の主人である。風月堂は初代の澤田宗智以来から、儒書・医書・日本古典・学術書など幅広く板行した。儒学者でもあった当主の澤田一斎こと重淵(元禄十四年・1701~天明二年・1782)が纏め上げた当主日記の『風月庄左衛門日暦』は特に有名で、書肆活動の実態や退引後の姿をよく伝えている。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十八年(2016年)五月作成