『折たく柴の記』(おりたくしばのき)

    


タイトル:『折たく柴の記』(おりたくしばのき)

著者:新井白石

上部出版書写事項:明治十四年(1881年)出版
形態:上中下全三冊 和装中本(A5版)
著者遺族代理人:鈴木慧淳
出版人:國文社本店・同第一支店・同第二支店・同第三支店
    潤生舎・山中市兵衛・稲田佐兵衛・丸屋善七
    中外堂・有隣堂・細川清助・國文社大坂支店

下部出版書写事項:明治廿三年(1890年)標註校正第二版
形態:上中下全三冊 和装中本(A5版)
著者代理白石社総代:大槻修二
標註並校正:内藤恥叟
発行者兼印刷者:青山清吉
印刷所:集英舎
発行書肆:雁金屋本店・雁金屋支店
専売書肆:吉川半七・林平次郎

目録番号:win-0080008



折たく柴の記』の解説

 『折たく柴の記』(おりたくしばのき)は、江戸時代中期に活躍した新井白石(あらいはくせき・明暦三年・1657~享保十年・1725)が著述し日本屈指の自伝と呼ばれた自伝的随筆である。この書名は、『新古今和歌集』の巻八に収録されている後鳥羽上皇(ごとばじょうこう・治承四年・1180~延応元年・1239)の御製である哀傷歌の「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」に由来している。

 「六十の老翁、散位、源君美、丙申の十月四日に、筆を起しつ」と白石晩年の自伝であることを表明した序を配し、上中下の三巻で構成されている『折たく柴の記』の記述に沿って白石の行状を追ってみることにする。

 新井筑後守源君美と称した白石は、二度の浪人を経験し、数奇な運命を辿った儒学者で政治家でもあった。白石の先祖は、上野国新田郡新井村(現在の群馬県太田市)の土豪で源氏であったが、豊臣秀吉の小田原征伐により没落した。祖父は勘解由殿と呼ばれ、祖母は相模国の染屋の藤氏で、常陸国下妻庄であの世の人となった。白石の父である新井正済が上総の久留里藩に仕官していた時に白石が生まれたが、後に、父子は久留里藩を追われ自由の身となった。

 自由の身となってからの白石の行状として、富商である角倉了仁からは「富商の娘に侍の子にあわせて、家ゆづらん」と誘われ、白石は「おやおほぢの取傳へ給ひし弓矢の道をすてて、商人の家つぐべしともおもひ候はず」と断ったり、河村通顕(河村瑞賢の次男)からは「我亡兄のむすめの候なるにあはせまゐらせ、黄金三千両にもとめ得し宅地をもて学問の料となして、ものまなび給ふやうに」と誘いを受けたが、白石は「初其蛇の小しきなりし程は、わづかにさすがをもてさしきりし所なるが、すでに大きくなりしに至ては、一尺余りの疵とは成しなり」と断った逸話を記載した。

 この逸話には後日談があり、白石は「その富家は河村といひし、その孫女の夫は黒川とかいひて、其父祖ともに儒に名ありし人なり」としか記載してなく、瑞賢の名は挙げていないのであるが、身分の違いを意識した時代を感じさせる記載である。その後のある時、身分の違う瑞賢から「決死の覚悟で勉強しなさい」と言われたことが、白石を発奮させた原因であることを、同門の室鳩巣が伝えている。

 白石は、瑞賢から蔵書を利用させてもらったり、連れ合いの心配もしてもらい、瑞賢を「天下に並ぶ者がない富商」「知略明敏の人」と讃え、「瑞賢、雨沐風梳、足迹殆ど四裔に偏し、国家の為に赤心を尽し、以て大計を建つ、忠なりと謂ひつべし」と絶賛している。

 その後、白石は大老の堀田正俊(寛永十一年・1634~貞享元年・1684)に仕えたが、正俊が失脚すると白石は堀田家を退いて浪人し、中江藤樹の『翁問答』を教科書として独学で儒学を学び続けた。

 そして、『錦里文集』で紹介した木下順庵(きのしたじゅんあん・元和七年・1621~元禄十一年・1699)と巡り合い入門することになる。『海舟座談』で紹介したように勝海舟(かつかいしゅう・文政六年・1823~明治三十二年・1899)は教育者としての順庵を評価しているが、「木門十哲」と呼ばれた優れた人材を輩出した。

 白石は順庵から才智を見込まれて、加賀藩への仕官を薦められた。白石も「加州は天下の書府」と賞賛している加賀藩は前田綱紀が学問を奨励していたのである。しかし、同門の岡島忠四郎から「加賀には年老いた母がいるので、私を推薦してほしい」と頼まれ、岡島に譲ったのである。

 その後、甲府徳川家の徳川綱豊(後の徳川家宣)の使者が儒学者を探しに来た折には、順庵は門人の新井白石を甲府藩に推挙し木門の隆盛が始まったのである。また、順庵が江戸で生活するようになってからの『錦里文集』での記録において、江戸に居住していた門弟の新井白石と榊原篁洲に関する詩文が最も多く、師匠を尊び訓言を求める白石に対して一文を草した順庵との師弟愛を窺うことが出来る。

 甲府藩主の徳川綱豊が名を家宣と改め将軍に就任すると、側近として「正徳の治」と呼ばれる政治改革を推進した。家宣の子で七代将軍の徳川家継の下でも政権を担当することになったが、幼君を補佐する政局運営は困難を極め、幕閣や譜代大名の抵抗も激しくなり、徳川吉宗が八代将軍に就任すると白石は失脚し、公的な政治活動から退くことになった。最終的に千駄ヶ谷の地に隠棲し、晩年は不遇の中でも著作活動を続けた。

 そして、『折たく柴の記』は、「筑後守従五位下源君美正徳六年丙申五月下澣筆を絶つ」と締め括られている。

 今回紹介した『折たく柴の記』は、明治時代に出版された竹中邦香校正の白石社刊行国文社印刷のものと内藤恥叟標註校正の青山堂発兌集英舎印刷のものを紹介した。

 竹中邦香(たけなかくにか・天保五年・1834~明治二十九年・1896)は、加賀藩士出身で明治になると司法官を務め、辞して後は、「国文社」の社長に就任し、『野史』などの歴史書や法律書や地誌・漁業関係の専門書を執筆し、活字に俗字や偽字を排除して正字の採用に努力した活版印刷を手掛けた。「国文社」は活版の始祖と呼ばれた本木昌造(もときしょうぞう・文政七年・1824~明治八年・1875)の門下生である山田栄蔵が創設した活版印刷所の「啓蒙舎」が基となり、竹中邦香が社長に就任して「国文社活版」として評価を高めた。

 「国文社活字」は、さすがの樹冠人も読みにくく、内藤恥叟標註校正の青山堂発兌集英舎印刷のものを購入した経緯がある。

 「通俗言志四録」や「西郷南洲先生傳」や「福翁百話」でも紹介した集英舎は、現在では世界最大規模の総合印刷会社となった大日本印刷株式会社の前身で、明治九年(1876年)に創業した日本で最初の本格的印刷企業でもあり、集英舎の社名の命名は、勝海舟(かつかいしゅう・文政六年・1823~明治三十二年・1899)であった。

 元幕臣の佐久間貞一(さくまていいち・弘化三年・1846~明治三十一年・1898)ら四人が、「印刷」を通して知識や文化を広めなければならないという情熱をもって集英舎の創業を開始した。仏教や神道などの布教のための新聞や一般日刊新聞の印刷も手掛けた。また、秀英舎が印刷した中村正直(なかむらまさなお・天保三年・1832~明治二十四年・1891)が著述した「改正西国立志編」は、板紙の開発から行い日本で初めての純国産の洋装本であった。

 明治時代に活躍した佐久間貞一は、明治時代から大正時代に活躍した政治家でジャーナリストでもあった島田三郎が「独立独行の紳士、オリジナリティーを有する事業家」と評価した実業家であった。また、「わが国労働運動の大恩人」で「日本のロバート・オーエンともいうべき人である」と労働運動家で社会主義者の片山潜も絶賛している。


【参考】『野史』について

 『野史』とは、江戸時代末期に編纂された歴史書で、別名を『大日本野史』『日本野史』とも呼んだ。国学者で勤王家であった徳山藩士で有栖川宮家の家来無席であった飯田忠彦(いいだただひこ・寛政十年・1799~万延元年・1860)が編纂し、水戸藩の『大日本史』の後を継承して、後小松天皇より仁孝天皇に至る四百二十余年の史実を紀伝体で記述した。本紀二十一巻・列伝二百七十巻(全百冊)で構成され、嘉永四年(1851年)に成立した。国文社の竹中邦香が校訂した書籍が有名であった。




   所蔵者:ウィンベル教育研究所 池田弥三郎(樹冠人)
   平成二十七年(2015年)九月作成